
齷齪するのは僕たち人間ばかりで、宇宙も大自然も実に静かで淡々としたしたものなんだ。そこには情けはない。もちろん依怙贔屓もない。比較の罠にはまる煩悩多き人間とはなんと愚かなのだろう。
釈迦のいう三毒とは「貪・瞋・痴」だけれど、やはり無用に求めることがあらゆる問題の根本原因だとつくづく思う。
ロストロポーヴィチに献呈されたソフィア・グバイドゥーリナのチェロ、室内合唱と打楽器のための協奏曲「太陽の讃歌」は、アッシジの聖フランチェスコの言葉をテクストとする。簡明な方法(?)で多様に描かれた、この静謐な祈りに溢れる音楽は、心身の疲れ切った僕たち現代人に真の癒しを与えてくれる。
宇宙の始原を顕す独奏チェロが何と孤独に、同時に神秘的に奏でられることだろう。そして、ほぼヴォカリーズで歌われる人の声こそが宇宙そのものの混沌と調和を示すようだ。天と人が一つになって事を成す時代にあって、意識してかどうなのか、グバイドゥーリナの方法は実に的を射ている。
4つのパートに分かれるとはいうものの全曲は続けて奏される。最後の「死への讃歌」に見るすべての楽器や人声の恍惚とした安息の表情は、グバイドゥーリナも生と死を一つと捉え、あるいは愛と死を同質のものと捉え、繰り返されるものだと理解していることがわかる。本当に美しい。
そして、ヴィスネフスカヤの名唱によるブロークの詩による歌の奇蹟。病み上がりのショスタコーヴィチが、死への怖れを超え、生の奇蹟を見事に音化した歌を何と情感豊かに表現することか。ここでのロストロポーヴィチのチェロは優しい。
最後のロマンスは、私自身が「音楽」と名づけた。そして私は、この連作全体をも同じように名づけたいと思う。なぜなら、それはきわめて音楽的な言葉に作曲されたからである。
(ドミトリー・ショスタコーヴィチ)
終曲「音楽」の厳しさ、あるいは柔らかさ。デヴェッツィのピアノがうねる、また、ヘルシャーのヴァイオリンが飛翔する、さらにロストロポーヴィチのチェロが跳ねる。音楽の喜びだ。