われわれは、ある有機体を長くは統一体として眺めることはできない、またわれわれ自身を長くは統一体として考えることはできない。われわれは自分自身を二つの見地から考察することを余儀なくされる。一つは外的感覚に依拠する存在、他方は内的感覚によってのみ認識されるか、そのさまざまな作用によって知覚されうる存在である。
動物生理学はそれゆえ、相互に容易に分離できない二つの部分に分かれる。身体的部分と精神的部分である。両者は相互に分離されえないが、この分野の研究者は一方あるいは他方から出発し、どちらかにウェイトを置くことができる。
~木村直司編訳「ゲーテ形態学論集 植物篇」(ちくま学芸文庫)P49
有機体のことゆえ本来なら両方からバランスよく統合して考えるべき実相だが、碩学ゲーテといえども今となっては偏ったいかにも西洋的なものの考え方だと思う。
しかし、有機体である西洋音楽はヘーゲルの弁証法的方法から成立したものであるから美しいのだと捉えるなら、上記の弁もまったくもって正論だ。
曲のタイトルが「メタモルフォーゼン」と複数形になっているのは、ゲーテの「穏やかな風刺詩集」からの「植物のメタモルフォーゼ」と「動物のメタモルフォーゼ」の二篇の詩を示唆していると思われる。シュトラウスはこれらの詩を、最初のスケッチ帳に書き込んでいるからである。
「誰も自分自身を知ることはなく/自分そのものから離れることはない
だが彼は毎日/彼が何であり、何であったか/何ができ、何を好むのかを
外に向かって明かそうとする」
~田代櫂著「リヒャルト・シュトラウス—鳴り響く落日」(春秋社)P386-387
戦禍の中、欧州の黄昏を目前にしてシュトラウスはゲーテを引用したが、よくよく見ると、そこには東洋的(?)天人合一の世界観をもってしか解釈することのできない心が反映されているように僕には思えてならない。
ティタニア・パラストでのコンサートの模様。抑圧された精神がいよいよ解放されんと響く落涙の歌。戦後復帰したばかりのフルトヴェングラーは何を思うのか。
フルトヴェングラーの指揮する音楽は暗く重い。しかし、澄み切った音調の奥から聞こえてくるのはやはり希望であり、喜びだ。僕たちの現今の身体が(本性という視点からは)あくまで借り物であることをついにシュトラウスは悟ったのかどうなのか。作曲家の真理を明かそうと試みるその姿勢とそれを体現し、純粋に音化しようと努める指揮者の無垢にそもそも僕は感激なのだ。
そして、その1ヶ月ほど前にゲマインデハウスで収録されたヒンデミットの内なる熱気の素晴らしさ。いずれも当時としては発表間もない現代音楽だが、ほとんど自家薬籠中となる演奏の意味深さに舌を巻く。何より指揮者フルトヴェングラーの思い入れたっぷりの音楽は、聴く者を金縛りするほどの力を持つ。中でも僕は第3楽章アンダンティーノの、暗澹たる表情ながらひと時の安寧を喚起する音調にシンパシーを覚える。ここでのフルトヴェングラーは神がかっている。