ブリリオート スチュワート ケレメン リッダーブッシュ デルネシュ カラヤン指揮ベルリン・フィル ワーグナー 楽劇「神々の黄昏」(1969.10録音)

精緻で磨かれた音楽劇。そこには演出はなく、また舞台もない。あくまでコンサートとしての「神々の黄昏」。余計な思念が排除された、音楽だけの(?)ワーグナーとは何という心地良さだろうか。

然り、見慣れない美しいものに驚嘆するということは、活動的で戦闘的な年頃の特権であるどころか、おそらく高齢になって一日の自分の仕事を終えたあと、もはや自分というものがそれに関連づけられることも、そのなかに反映されることも、それと比較されることも必要としないとき、初めて本当に思いのままになり、全く捉われることなく行われるものであるようだ。「美しい」とカントは言う、「利害をはなれて気に入るものは。」
(リヒャルト・ワーグナーと「ニーベルングの指環」)
トーマス・マン/小塚敏夫訳「ワーグナーと現代」(第2版)(みすず書房)P156-157

もちろんカラヤンが「利害をはなれる」という芸当をやってのけることができたとは思えない。しかし、借金苦に喘いだワーグナーにはそういうところがあったのではなかったか。何よりマンの「指環」論には目を瞠るものがある。

そしてその英雄を、ブリュンヒルデと同じように、いまだ生れでる前から愛した。それが彼のジークフリート、彼の過去の情熱をも未来の悦楽をも湧きたたせ満たした人物である。変幻無碍であったから。その人間は—彼自身の言葉をかりれば—「彼の官能的色彩の濃い告知をもっとも自然に、もっとも快活に体得している者、男性の姿をした、永遠ではあるが稀れにしか生まない不随意の精神、最高にしてもっとも直接的な力と少しも疑う余地のない善意に溢れた現実に行動する者」である。つまり、何物によっても制約も受けず圧迫もされないこの神話的な光の形姿、守護されず、全く自分自身の足で立ち自分自身のなかから生きる自由に放射する人間、死という崇高な自然の出来事を通して古い衰微した世界権力のたそがれを導き出し、世界を認識と道徳の新しい段階へ高めて救済する、恐れ知らずの純真な行為者、運命の遂行者、—こういった人間をワーグナーは音楽のために考えられたドラマの主人公とした。
(リヒャルト・ワーグナーと「ニーベルングの指環」)
~同上書P167-168

資本という権力を武器に世界を支配する時代はすでに終わっているのだろう。まるで150年後を暗示するかのようなプロットにワーグナーの予知能力(?)の高さを思うのだ。しかし、言うは易し、行うは難し。

形而上学のシャーロック・ホームズであるワーグナーは、大胆にも、「ユダヤの神はアベルの捧げた肥った小羊をカインの差出した野菜よりも楽しく味わったという驚くべき事実」のヴェールを剥ぎとるのだ。偉大なる人物は年老いてますます壮健であった。
(ピーター・ヴィーレック「ヒトラーとリヒャルト・ワーグナー—国民社会主義の起源について」)
~同上書P202

晩年の「再生論」の先見に僕は膝を打つ。ただし、彼の思想は、後にアメリカの詩人、歴史学者であるピーター・ヴィーレックの分析するように、人を真の意味で感化することが難しかった(あくまで思想ゆえ)。それにしても、思想の萌芽は既に1858年の時点であったことが興味深い。

1858年ヴェネツィアからヴェーゼンドンク夫人宛に書いた長い激しい手紙の中で、彼は仏陀劇「勝利者」のプランについて語ったあと、この女友達にこのことを披瀝する。仏陀劇、そこにはまさしく難点がある。それは形容の矛盾(contradictio in adjecto)である—これは彼にも、あらゆる情熱から解放された完全に自由な人間、仏陀その人を、ドラマの、それも主として音楽的な表現のために役立てようとすることの困難に直面して、明らかになったことである。純潔なもの、聖なるもの、認識によって浄化されたものは、芸術的にみれば死んだものである。神聖とドラマは統合されえない、これは明らかである。そして幸いなことに釈迦牟尼・仏陀が、史実によると、あるのっぴきならぬ問題の前に立たされて、のっぴきならぬ葛藤にまき込まれるのである。
「リヒャルト・ワーグナーの苦悩と偉大さ」
~同上書P103

マンの主張は実に興味深い。あまりに人間的なドラマとしてのカラヤンの「指環」の存在価値は、そこにあるのだろうと思う。神聖を排除したドラマを音で描いたカラヤンの方法に僕は納得する(トーマス・マンがこの録音を聴いていたらば、是としたのか非としたのか)。

・ワーグナー:楽劇「神々の黄昏」
ヘルゲ・ブリリオート(ジークフリート、テノール)
トーマス・スチュワート(グンター、バリトン)
ゾルタン・ケレメン(アルベリヒ、バス・バリトン)
カール・リッダーブッシュ(ハーゲン、バス)
ヘルガ・デルネシュ(ブリュンヒルデ、ソプラノ)
グンドゥラ・ヤノヴィッツ(グートルーネ、ソプラノ)
クリスタ・ルートヴィヒ(ヴァルトラウテ/第2のノルン、メゾソプラノ)
リリー・チューカシアン(第1のノルン、コントラルト)
カタリーナ・リゲンツァ(第3のノルン、ソプラノ)
リゼロッテ・レープマン(ヴォークリンデ、ソプラノ)
エッダ・モーザー(ヴェルグンデ、ソプラノ)
アンナ・レイノルズ(フロスヒルデ、メゾソプラノ)
ベルリン・ドイツ・オペラ合唱団(合唱指揮:ヴァルター・ハーゲン=¬グロール)
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1969.10録音)

ベルリンはイエス・キリスト教会での録音。
第2幕における策士ハーゲンの、ブリュンヒルデに取り入り、ジークフリートの弱点を聞き出すあたりの、人間感情の描写の巧さこそカラヤンの魔法。そして、第3幕の「葬送行進曲」から「自己犠牲」までのクライマックスこそ脱力のカラヤンを示す最高の瞬間であるように僕は思う。

ハーゲンは、亡くなったジークフリートの指から指環を奪おうとするができない。ジークフリートの遺体はブリュンヒルデによって薪の上に安置され、火がかけられる。そして、愛馬グラーネに乗ったブリュンヒルデは炎の内に身を投じるのである。そこへライン河の水が溢れ、すべてが押し流される。一方、火は天上のヴァルハラ城を燃やし、神々はついに滅ぶ。

何という終末か!
この世のすべてが仮のものであることを悟れとワーグナーは言う。金も名誉も権力も持って死に往くことはできない。それよりも愛だ、慈しみだ。良心たる本性を知れとワーグナーは仏陀から学んだのだろうか。
ちなみに、「指環から離れろ!」というリッダーブッシュ扮するハーゲンの断末魔の声が何と潔く響くことだろう(仮のものを表現するのにカラヤンの棒は実に最適だ)。デルネシュのブリュンヒルデは可憐で美しいが、最期は実に儚く聴こえるのがまた良い。

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