
詩人の宗左近が、モーツァルトについて次のような言葉を残している。
モーツァルトについては、ひどくしゃべりにくい。あまりにも数多くの輝かしい個性が、200年にもわたって述べたてすぎている。ヴァレリーがスタンダールについて書いたところをもじって、モーツァルトについて語れば際限ない、これにまさる賛辞があろうか、そういったなり後は口をつぐんでいるに越したことはない。
~「私のモーツァルト」(共同通信社)P188
真理と同様、傑作は言葉で表現できるものではない。
もう何十年もモーツァルトに触れてきて、果たして今頃になってようやくその価値がほんの少しだが、解るようになってきたように僕は思う。
中でも、オットー・クレンペラーのモーツァルト。
ただひたすらに、自身の感性のおもむくまま、しかし、重厚に奏でられるモーツァルトは、どの瞬間も高貴で、かつ美しい。可憐な音楽が堂々たる威容で再現されるとき、僕は思わず唸り声を上げる。
あまりに知られた交響曲ト短調の、内なる憂愁を蹴散らし、むしろ希望を前面に歌う音調に、さすが(?)躁鬱病を持っていたクレンペラーだと思った。言葉にならないこの明るさはクレンペラーならでは。そして、哀感満ちる、力強い葬送音楽の、やはり内側から沸き立つ歓喜(?)もクレンペラーの偏屈さから出たものなのか?
最高の名演奏は、交響曲変ロ長調K.319。第1楽章アレグロ・アッサイの、例のジュピター音形の現われる瞬間の何とも表現し難い心地良さ!!クレンペラーはとことんモーツァルトに感じているようだ。続く、第2楽章アンダンテ・モデラートの格別な重厚さ。弾け切らない、あるいは踊らない第3楽章メヌエットは、純粋音楽のよう。そして、終楽章アレグロ・アッサイは実に崇高な調べを醸す。