
さて、ムソルグスキイは「原ボリス」創作の際、署名には「『ボリス・ゴドゥノフ』—4部からなるムソルグスキイの音楽的演し物」と記していた。しかし、劇場で検閲を受けるために台本を提出するときには、当局になじみのある「オペラ」という言い方に変えている。また「1872年原典版」は「プロローグ付の4幕のオペラ」と記されている。1874年のピアノ版の初演ポスターも同様である。ところが、印刷されたピアノ版では(1874年)、「プーシキンとカラムジンを基にした民衆(的)音楽劇」と呼びなおされている。
~桑野隆「オペラノイコノロジー1 ボリス・ゴドゥノフ」(ありな書房)P189
マリインスキー劇場は、いわゆる「原ボリス」にプリマ・ドンナが登場しないこと、アンサンブルが重視され過ぎていること、物語が陰惨であること、そして何より音楽が革新的で受け入れ難いことなどを理由に上演を断ったのだという。
一切の美辞麗句を排した、裸のムソルグスキー。音楽には無駄がなくシンプルであり、また、聴く者の心(魂)に直接届くほどに刺激的だ。彼の当初の思考では、これはオペラではなかった。あくまでプーシキンの戯曲をベースにし、自らの思想を史実になぞらえ、ボリスに託した自身の信仰告白のようなものだった。
一般にいまでもそうだが、1598年から1605年にかけてのボリス治世を舞台としたこのオペラは、題名そのものからしても皇帝ボリスの悲劇的物語と受けとられがちである。ことに「原ボリス」や「リムスキイ=コルサコフ版」のようにボリスの死で幕となると、そうした受容があって当然といえよう。
~同上書P20
「原ボリス」の第4部は、モスクワにある聖ワシーリー寺院の前の広場だ。
当時、民衆の間では、イワン雷帝の後を継いでいたフェオドールの弟、8歳のジミートリイは、時の実力者であったボリスによって殺害されたのだと囁かれる一方で、実はジミートリイは生きているのだという噂もあったのだが、ミチューハと民衆との間で、ボリスの死を願う不気味なやり取りがある。そこに子どもからいじめを受ける(?)聖愚者が登場するのだ。
聖愚者 あああああ。ボリス様! ボリス様! わたしは馬鹿にされました! ああ!
ボリス 何を泣いておるのじゃ?
聖愚者 子どもたちにお金を取られました。どうか奴らを八つ裂きの刑に、幼い皇子を八つ裂きにしたように。
シュイスキー 黙れ、この阿呆! この阿呆をひっ捕らえろ!
ボリス 手を出すな! わしのために祈ってくれ、聖なるお人よ!
聖愚者 だめです、ボリス様! それだけはできません、ボリス様! ヘロデ王のためには祈れません!・・・マリア様がお許しになりません。
聖愚者は真相を暴露する。そして、ここで聖愚者は、信仰を失った現代の悲劇に通じるであろうかの有名な文句を唱える。
流れろ、流れろ、
苦い涙は、
泣いて、泣け、正教徒の魂よ。
じきに悪魔がやってきて 一寸先も見えぬ 漆黒の闇が 訪れようぞ。
何たるロシアの不幸!
ロシアの民よ、飢えたる民よ、泣いて、泣け!
(亀山郁夫訳)
ムソルグスキーの音楽の苦悩と希望を併せ飲む直截的な響き。
僕は弔いの鐘と、ボリスの死に直面するクライマックスたる第2部の集中力とパッション(受難)に心動き、突如として途切れるように命を終えるボリス・ゴドゥノフのシーンに震えるのだ。
因果の環を超えるため聖愚者(斉公活佛か?)の心法を得なければならないことをムソルグスキーは知っていた。しかし、残念ながら時期尚早。ボリスにその縁はなかったこともわかっていた(もちろん自分自身にも)。静かに息絶えるボリスの最終場面の諦観に溢れる音楽の妙はムソルグスキーならでは。
それにしてもゲルギエフの棒は何と生き生きしているのだろう、そしてまた何と荒々しくもリアリティに満ちるのだろう。文字通りムソルグスキーの赤裸々な原典がここにはある。
※ワレリー・ゲルギエフ指揮キーロフ歌劇場 ムソルグスキー 歌劇「ボリス・ゴドゥノフ」(1872年改訂版)