ブレンデル ベートーヴェン 6つのバガテル作品126ほか(1984.3録音)

ベートーヴェンは変人だった。
俗世間の人たちにはまったく理解できない性質を持った人だった。
しかし、おそらく本性で真理はつかんでいたのだと思う。

変奏曲に関して、それほど多くはないと思われていることは間違いで、そういう風には示すことができないのです。たとえば、大きい方(作品35)では変奏がアダージョに溶け込むこともあるし、フーガはもちろん変奏とは言えませんし、この大きい変奏曲の序奏部は主題のバスで始まり、それから2声、3声、そして最後には4声となり、それからようやくテーマが来まして、これもやはり変奏とは呼べません。
(1803年4月8日付、ブライトコップ・ウント・ヘルテル社宛)
大崎滋生著「ベートーヴェン 完全詳細年譜」(春秋社)P143

一筋縄ではいかない、説明のつかない、ほとんど理解を超えた無意識の革新。
15の変奏曲とフーガ作品35は、いわゆる「英雄」交響曲終楽章のテーマを主題にする画期作だが、アルフレート・ブレンデルの演奏は、音楽が伸びやかに拡散すると同時に、実に普遍性をもって響く。

同じくブライトコップ・ウント・ヘルテル社に対し、彼は次のように要求している。

これらの変奏曲は、従来の私の作品とは明らかにことなったものであるから、従来のように変奏1、2、3・・・という番号を付けるのではなく、私の主要作品に付ける作品番号を与えることにした。特に主題も私の創作になるものである。
PHILIPS 412 227-2ライナーノーツ

ベートーヴェンの頑固なまでの自信がこの言からもうかがえる。
それは確かに、これまでにない傑作だ。

ベートーヴェン:
・15の変奏曲とフーガ変ホ長調作品35「エロイカ変奏曲」
・バガテルイ短調WoO59「エリーゼのために」
・6つのバガテル作品126
・6つのエコセーズ変ホ長調WoO83
アルフレート・ブレンデル(ピアノ)(1984.3.4-10録音)

何より、「つまらぬもの」という意味合いのバガテルこそベートーヴェンの類稀なる自信作。
「歓喜の歌」の「諸人よ、抱き合おう」という言葉の真意を抽象化した「エリーゼのために」は正式な作品番号を持たないが、それゆえにこそ、ベートーヴェンの真の傑作の一つだと言えまいか。ブレンデルの演奏は軽やかだが、意味深い。これど桃源郷への希望の歌であり、ベートーヴェンが人類の覚醒を音楽に託したケースであると僕は思う。

そして、白眉は最晩年の6つのバガテル作品126。

6曲はいずれも「小物」の観を呈してはいるが、実質的には6曲がひとつの全体的総合をなしてミクロコスモスを形成している。楽想や強弱の突然の転換、その間に挿入された表出性の強いカデンツァ、リズムの自在な変容、しかも総じて音調は軽く、リーツラーが指摘した晩年の様式を特質づける「浮遊する」ようなトーンが聴かれる。
(丸山桂介)
「作曲家別名曲解説ライブラリー③ベートーヴェン」(音楽之友社)P476

丸山さんの解説に、はたと膝を打つ。
(当時、ベートーヴェンは経済的に追い詰められていたが)ここにも「皆大歓喜」の思想が刻印されるのである。

私が時を問わず作曲しなければならないのは、富を蓄えるためではありません、ただ衣食を賄う必要からだけです。
(1825年1月15日付、ニート宛)
~同上書P471

それは、意図しない、自然体のベートーヴェンの本性からの発露であるように僕は思う。しかも、やはりブレンデルの演奏は極めて透明度が高い。限りなく「我」が排除され、純粋無垢の音楽が鳴り響くのである。特に第3曲アンダンテ・カンタービレ・エ・グラツィオーソの優しさ、転じて第4曲プレストの弾ける愉悦。あるいは、第6曲プレスト―アンダンテ・アマービレ・エ・コン・モトの深み。

ちなみに、作曲時期が不明の6つのエコセーズは、僕の愛聴曲。不思議な癒しが、この短い音楽(6曲ともすべて32小節でまとめられており、しかも調性は変ホ長調!)にはある。

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6 COMMENTS

桜成 裕子

おじゃまします。ブレンデルの演奏で「エリーゼのために」「エコセーズ」「バガテル作品126」を聴いてみました。どうしたらこんなに軽やかに弾けるのでしょう!
「バガテル作品126」は「ディアベリの主題による33の変奏曲」と同じく、第九と並行して作曲されたそうですね。ロマン・ロランによると、これら2つのピアノ曲はその価値が正当に歴史に位置付けられていない卓越した作品、とのこと(現在は事情が違うかもしれませんが)。少し引用させていただくと、「『変奏曲』『つまらぬもの』などと言った謙虚な呼び名にだまされてはならない。それは鍵盤のための卓越した諸作品であり、最後の諸ソナタのはるかかなたに行っている。作品111以後ピアノを閉じようなどということベートーヴェン自身夢にも考えていなかったことを証している。彼はピアノの可能性を汲みつくしていなかったし、それどころか新しい世界の探検に出発したのだ。彼の聾がそのころから音の王国の風味を味わうことを禁じていたという低評価的な断定があるが、これらの作品が古典時代のそれよりもワーグナー以後の時代のそれに強い親近性をもつような、聴覚の繊細さと和声の洗練を証しているということほど、それに対する有力な反証はない。彼は四重奏曲や交響曲においてと同様に、鍵盤音楽の領域でも、全てのものを更新しつつあった。」と読むと、今さらのようにベートーヴェンをわかっていないことを突きつけられる思いです。「バガテル第一番の開始部の汚れなき空をみたまえ。しかしそれが曇るのはささいなことで充分だ。にもかかわらずそれがむかしの作品でのように、情念や慎みのない情動で侵される危険があるということは心配しなくてよい。至高の技術の腕前が適切に正確に色合いを配分しているし、ベートーヴェンが細部にこれほどの価値を与えたことはかつてなかった。・・・・彼は調性の継続に気を配り、作品119にはなかった『様式の統一性』を保とうとした。これらの六つの変化に富む「気分画」の順序が偶然ではなくよく考えられたものであったことが、われわれにそこでベートーヴェンの魂の一日のひろがりや、彼の感情の結ばれ合った継続をさがすのを許している。圧倒的な計画に服従する大作品においてより、こうしたものにこそ、最も純粋は平和やその無上の楽しみを味わっているこの精神の極度の流動性をわれわれは正確に読み取る。」これほど詳細にベートーヴェンの音楽を感知し言葉にできるロランはすごい、と思うのですが、悲しいかな私の感受性レベルはまだ「情念や慎みのない情動」の方に惹かれているようです。このなにか突き抜けて「大歓喜」の領域に入ったベートーヴェンには未だついていけず、作品126もベートーヴェンの人がかわってしまったように感じます。しかし岡本様は「意図しない、自然体のベートーヴェンの本性からの発露」と、ロマンロランと同様のことを感じておられます。うらやましいことです。この度はブレンデルの演奏とロマンロランの「ベートーヴェン偉大な創造の時期ー幻想の金の尖塔『ディアベッリ変奏曲』と『バガテル集作品126』に触れる機会をくださり、ありがとうございました。

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岡本 浩和

>桜成 裕子 様

ロマン・ロランの「ベートーヴェン偉大な創造の時期ー幻想の金の尖塔『ディアベッリ変奏曲』と『バガテル集作品126』」のご紹介ありがとうございます。不覚にも僕はこの本を読んでおりません。掲げていただいた箇所だけを読んでも、ロランのベートーヴェンに対する慧眼と申しましょうか、センスといいましょうか、抜群ですね。的を射ていると思います。
たしかに、同じような感覚を僕も持ちますが、ディアベリにせよバガテル作品126にせよ、腑に落ちたのは本当にここ最近のことです。特に「ディアベリ」は、聴いては途中で頓挫する日々が長らく続いておりましたが、4年前に内田光子の実演を聴いたとき、目から鱗が落ちたように突然わかりました。
https://classic.opus-3.net/blog/?p=19686

あと、ぜひアナトール・ウゴルスキの「ディアベリ」を聴いてみていただきたいと思います。恐るべき名演奏だと僕は思います。
https://classic.opus-3.net/blog/?p=21709

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桜成 裕子

岡本 浩和 様

 貴重なアドヴァイスをありがとうございます。それにしても内田光子リサイタルでのディアベリ体験、すごいですね。羨ましい限りです。CDはないようなので、ウゴルスキ版を聴いてみます。ディアベリ変奏曲の最後の変奏曲はソナタ32番のアリエッタに再びめぐりあっているそうですね。どちらもアントーニエ・ブレンターノに献呈されていることを思うと、青木やよひさんを思い出します。
内田光子リサイタルでの回の各変奏についてのコメントを参考にしながら、なんとか最後までたどり着きたいと思います。ありがとうございました。

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桜成 裕子

おじゃまします。ウゴルスキの「ディアベリ変奏曲」を聴いてみました。最後まで興味深く聴くことが出来ました。この作品がベートーヴェンのピアノ曲の最後を飾るとてつもなく大きく不思議な曲であると感じました。(変奏曲をひとつひとつ検証しながら味わうまではいっていないので、大雑把な感想で恐縮ですが。)昔初めてこの曲を聴いた時、これがなぜ変奏曲なのかわかりませんでした。従来の変奏の概念を大きく上回っているのですね、多分。注意深く聴くと、最初のディアベリのワルツの片鱗を見つけられないでもないような気がします。まだまだついていけていませんが、21番変奏で32番ソナタのアリエッタの面影、25番変奏の静謐な祈りのような清らかさはベートーヴェンの晩年の心を映しているような気がして感動的でした。ウゴルスキの演奏はフォルテの脳天に突き刺さるような強烈さから天上に舞う羽根のような軽やかさまで自在で、本当にすごいと思います。なぜか最初の一音からグールドの演奏と似ている、と感じました。解説を読むと、ウゴルスキ自身がグールドに最も影響を受けた、と言っていることがわかりました。グールドの演奏も聴きたかった。録音がないのが残念です。グールドはベートーヴェンのピアノソナタ全曲も再録音する予定だったそうなので、かえすがえすも急逝が悔やまれます。ディアベリ変奏曲の入り口に導いてくださり、ありがとうございました。いつか内田光子さんの演奏にも接することが出来たら、と思います。

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岡本 浩和

>桜成 裕子 様

ウゴルスキの感想をありがとうございます。
僕が言うのもおこがましいですが、桜成様は「ディアベリ」を十分とらえていらっしゃると思います。音楽は理解することももちろん大事ですが、何より感じることが重要です。

グールドがベートーヴェンの全曲を再録あるいは完成できなかったことは本当に残念なことですよね。それにグールドが「ディアベリ」を残さなかったことは人類の痛恨事だと心底思います。僕も「ディアベリ」理解はまだまだなのでもっと勉強しようと思います。
こちらこそいつもありがとうございます。

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