ミケランジェリ バレンボイム指揮パリ管 シューマン ピアノ協奏曲(1984.10Live)ほか

戦争中にヴィルヘルム・フルトヴェングラーとの録音がいくつか行われているが、いずれも行方不明になっている。同様に、ベルリンで若きヘルベルト・フォン・カラヤンと共演したラジオの録音も行方が分からない。晩年のABMはこの録音が気になっていたらしく(妻ジュリアーナいわく「彼はずっとカラヤンが嫌いでした!」)、何度も探そうとした。録音の日時ははっきりと思い出せなかった。「きっとモスクワにあるに違いない。ロシア人はなんでも持って行ってしまったからな!」。
コード・ガーベン著/蔵原順子訳「ミケランジェリ ある天才との綱渡り」(アルファベータ)P27

衝撃の内容に僕は言葉を失った。これが事実ならぜひともかの音源を探し出して全世界に向け発表していただきたいところだ。

ベネディッティの見事な財産は、そのカンティレーナである。単にレガートの歌う音のみではない。そうではなく、ひとつひとつの音の言葉を刻み出すのである。あたかも彫刻家の扱うワックスの中で、非常に細かいうねりから徐々に心をつかむような言葉が浮かび上がり、そのレリーフの高みからそっと流れるように移行して沈んでいくかのように。
~同上書P21

青年の頃から特別視されていたミケランジェリの高等な演奏技術を何とうまく、また文学的に評したものだろう。ちなみに、彼はスピード気狂いでもあったようだ。

彼は誕生したばかりのカーレースというスポーツに魅了され、イタリアで人気の高いカーレース、ミッレ・ミリアに2回参加している。日常でも道路上でのリスクをいとわず、ピアニスト、ニキータ・マガロフによると、その運転は「気が狂ったよう」で、「生きているのが奇跡だ!」そうである。
~同上書P24

何においてもスリルを求める性格は、完璧を求める彼の音楽の姿勢にもどこか通じているのかも。繊細な、傷つき易い内面であるがゆえ、外に向けては恐怖も厭わず、挑戦的な行動に終始したのだろうと思われる。

終演後の聴衆の怒涛の喝采がその演奏のすごさを物語る。しかしながら、音楽そのものは実に重い。あまりに鈍重に(?)鳴らされる第1楽章アレグロ・アフェットゥオーソ冒頭の和音にのけ反る。ヴィルトゥオーソの超絶名演奏が繰り広げられることが期待できる一撃だ。しかし、残念ながら音楽はこのあと軽快に走るとは言い難い。ロベルト・シューマンの充実し切った幸福な精神を丁寧に音化するようにピアノは歌おうとするが、オーケストラ伴奏とのちぐはぐなのか、どうにもピアニストは感興が乗らないようにも思える。
さすがにミケランジェリの許可が下りず、お蔵入りになっていた音源。そう思うと、彼の繊細な性格が災いしたのか、あるいはバレンボイムとの不一致なのか、どうにも中途半端な解釈に天才ミケランジェリも人間だったのだと安心する(?)。

実は初めて聴いたときは正直そんな印象だった。
しかし、幾日か経過してあらためてひもといたとき、まるで天使が舞い降りるかのようにこの演奏の意図が、そして意義が腑に落ちるような気がした。演奏が推進力に欠けるのは確かだが、その分、シューマンの作曲当時の幸福な感情が一つ一つの音に刻まれ、後の精神疾患を払拭するように丁寧に、見通し良く音楽が表現される様子に僕は感嘆した。
人の感覚など当てにならないものである。

・シューマン:ピアノ協奏曲イ短調作品54
アルトゥーロ・ベネディッティ・ミケランジェリ(ピアノ)
ダニエル・バレンボイム指揮パリ管弦楽団(1984.10.3-8Live)
・ドビュッシー:「映像」第1集
第1曲「水に映る影」
第2曲「ラモー礼賛」
・ドビュッシー:「映像」第2集
第1曲「葉ずえを渡る鐘」
第3曲「金色の魚」
アルトゥーロ・ベネディッティ・ミケランジェリ(ピアノ)(1982.3.11Live)

一方のドビュッシーはさすがに十八番だけある。「映像」第1集&第2集からの抜粋は、ガーベンの言うABMの「カンティレーナ」が見事に具現化されたもので、実に視覚的かつ立体的だ。何という美しさ。中で第2集の2曲の、切れば血のであるような音のうねりと、作品と阿吽で呼吸し、歓喜溢れる音楽が想像される様子に僕は思わず手に汗を握る。

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