Keith Jarrett “The Köln Concert” (1975.1.24Live)

場の力というものが確かにある。
もちろん時代の趨勢が人に及ぼす影響もある。
時間と空間の中にある僕たちにとって、時間と空間によって紡がれる音楽という芸術がどれほど崇高なものであるか、あらためて思う。
本来、一期一会の音楽は録音によって「切り取られたもの」では追体験できないものだ。実際その場に居合わせた人にしか決してわからない理(ことわり)がおそらくそこにはある。

ふたたび霊感。—生産力がしばらくせき止められる或る障碍によって流出を妨げられていると、そのあげく実に突然の氾濫が生じる、あたかも先だつ内面の労作をもたない直接の霊感が、つまり一つの奇蹟が成就されるかのように。これが周知の錯覚をつくりだすのであり、かかる錯覚の存続に、すでに述べたごとく、あらゆる芸術家の利益がいささかあまりにも依存しすぎているのである、資本はちょうど蓄積されたばかりであり、突然天から降ってきたのではない。
(第4章 芸術家や著作家の魂から156)
池尾健一訳「ニーチェ全集5 人間的、あまりに人間的1」(ちくま学芸文庫)P188-189

ネガティブにいうならば、「ケルン・コンサート」の一夜ももはや錯覚に過ぎないのかもしれない。もう一つ、ニーチェはかく語る。

霊感への信仰。—芸術家たちは、突然の思いつき、いわゆる霊感が信じられることを、いわば芸術作品や詩の理念、哲学の根本思想が恩寵の光のように天から射しこむと信じられることを得としている。本当はすぐれた芸術家または思想家の想像力は、たえずよいもの・普通のもの・悪いものを生産しているのであるが、極度にとぎすまされ練られた彼らの判断力が、捨てたり、選び出したり、結び合わせたりしているのである。今ではベートーヴェンのノートから、彼がもっとも壮麗なメロディーを次第にとりまとめて、多くの萌芽からいわば選び出したのだ、ということが洞察されるように。それほど厳格にけじめをつけずに、好んで模写的想起に身をゆだねる者は、事情によっては大即興家となりうるであろう、しかし芸術的即興というものは、真剣に苦労して精選された芸術思想と対比すれば、低い位置にある。
(第4章 芸術家や著作家の魂から155)
~同上書P187-188

ニーチェは即興を否定するが、おそらくそれは19世紀の遺物たる思想の成れの果てだ。二度となぞらえることのできない、瞬間に生み出されたフレーズの連続こそが人々を一層感化する。

・Keith Jarrett:The Köln Concert (1975.1.24Live)

Personnel
Keith Jarrett (piano)

人生で幾度聴いてきたことだろう。
矛盾するようだが、本来一度きりの即興演奏が、幾度耳にしても心動かされる奇蹟よ。神経質な孤高のジャズ・ピアニストが一切を排除して音に集中する様、そして、いつものようにときに雄叫びを上げて華麗な、あるいは静謐な音楽を奏でる様子に言葉を失う。

きみは称讃を好む だからきみの徳目に呪いが加わる
きみへの称讃もそれだけ割引きされる

(84番「讃辞の危うさ」)
関口篤訳編「シェイクスピア詩集」(思潮社)P37

ニーチェは後年、謙虚さを失った。賞讃という落とし穴にはまることなかれ。いつどんなときも謙虚であれ。

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