かつて北イタリアか、あるいは南フランスか、国境近く、その辺りに生きていたのだろうかと思う。
エキゾチックなモーリス・ラヴェル。「序奏とアレグロ」が何とも儚く、美しい。
音楽は愁いを帯びながらも弾け、うねる。そしてまた、原曲以上に夢心地のフルートとハープのために編曲された「亡き王女のためのパヴァーヌ」の永遠。いつまでも浸っていたいと思うフルートの奏でる主題に心が動く。
あるいは、ドビュッシー追悼に書かれた第1楽章アレグロをベースに3つの楽章を追加して発表されたヴァイオリンとチェロのためのソナタはラヴェル渾身の出来だろう。2つの楽器が直接に対峙するこの20分ほどの精神的佳曲は、初めて聴いたときから僕の宝物になった。
6歳までの彼の〈全体〉との体験的関係は、ごく単純に母への愛である。彼の〈母〉と〈世界〉とは同じ一つのものだ。この情愛に満ちた大きな女性は、無数の根と幾千の枝によって〈自然〉のなかで完結し、そのなかに姿を消している。すべてを覆う〈自然〉は、その最も完璧な被造物の甘美な裸形の上に、天と水との己が血管を、己が歳月の廻る火を映している。大気と水とに溶けていくこの〈水精〉と、半ば以上入りまじった少年は、彼の吸玉を母の肉の中に沈めて、肉親の体を通して大地の精髄を吸い上げている。母は世界を食い、子供のほうは母を食う。乳房を介して「巫女の白さに流れるのは女」であり、この奇怪にして流動的な聖体の中に、〈宇宙〉の全体が現前している。
(マラルメの現実参加から「II選ばれし者」)
~ジャン=ポール・サルトル/渡辺守章・平井啓之訳「マラルメ論」(ちくま学芸文庫)P139
小宇宙たるこの身体は霊性と一つになってはじめて機能するものだが、音楽とはその一体の顕現であり、20世紀のドビュッシーやラヴェルの目指した世界とは、愛そのものだったのではないかと思われる。喜怒哀楽、とりわけ悲哀に包まれるかの音楽たちには、想像以上の慈しみの光が漲るようだ。
ヴォルフガング・シュルツの独奏によるシランクスの浮かれたような音調に、憧れと懐かしさを思う。何よりたった一本の楽器によって奏でられる孤独と孤高は筆舌に尽くし難いものだ。そして、最晩年の傑作フルート、ヴィオラとハープのためのソナタは、死を目の前にした諦念がわずかな希望とともに奏でられ、祖国フランスへの大いなる愛情と自負が垣間見られ、美しい。
それにしてもフランス語の詩の耳に優しい響きはいかばかりだろう。ドヌーヴの声が実に官能を喚起し、目の前にパントマイムが繰り広げられる錯覚に陥るほど。