
“神様”は私にとって宗教的なものではなく“自然”ととらえていて、人間の生活も含めたところの自然の中に音楽がある、と思っています。そこから作曲された曲が演奏され、その優れたものが心を癒すものとして受け継がれているのだと思います。
~五嶋みどり「人間の原点を見つめなおす機会になれば」 『神々の息吹に誘われて』ヴァイオリン・リサイタルへの想い
存在としての自然は神そのものだ。それは、愛、あるいは慈悲と言い換えることもできるだろう。五嶋みどりが言うように、音楽とはもともと自然と一体になったものなんだと思う。
名高い作曲家となった息子のカール・フィリップ・エマニュエル・バッハは、バッハ家の誰もが「あらゆることをまっさきに宗教と結びつけるのが習わしだった」と語っている。日常のどんなありふれたことでも、信仰と無縁に思えるものは何一つなかった。この習慣は喫煙を題材にしたバッハのおどけた詩に姿を現しており、こんな具合に終わる。
「大地にあろうと、海原にあろうと、
本国にあろうと、外国にあろうと、
私はパイプをくゆらし、神を礼拝する」
その信仰観において、バッハは音楽を聖なるものと世俗のものとに区別しなかった。
~パトリック・カヴァノー著/吉田幸弘訳「大作曲家の信仰と音楽」(教文館)P20-21
清濁ならぬ聖俗合わせ飲むバッハの大らかな精神は、キリスト教というより神そのもの、すなわち自然そのものへの信仰に拠っていたはずだ。不足もなければ過剰もない中道に、少なくとも音楽をするときの彼の心はあったように思われる。
「少し念を入れて練習するんだ。そうすればできるようになる。私と同じく両手に5本、健康な指がついているだろう」
「私は働くようにできているんです。私と同じくこつこつやれば、同じようにうまくいきますよ」
~同上書P24
バッハは特に難しいことを語らない。しかし彼の言葉は重い。当たり前のことを当たり前のように言うのだが、果たしてそれを彼と同レベルでできる人がどれほどいたことか。
ゆらぐ自然と一体となった神そのものを表明する(極力ヴィブラートを抑えた)みどりのバッハに、僕は初めて触れたとき感動した。清澄な音楽そのものしか感じさせない脱力の奇蹟とでもいうのか、これぞ文字通り「自然体」。どの瞬間も心に優しい。

もう1枚、久しぶりにグレン・グールドを聴いた。
ゼンフ・スタジオ・リ・パフォーマンス(リマスタリング(remastering)でもなく、復元(restoration)でもなく、録音(recording)でもなく、その録音の裏にあるオリジナルの演奏を再創造したもの)と称する、1955年の有名なデビュー録音が、2006年に「再演された」バージョン。当然ながらここには演奏中のグールドのハミングやうなり声は入っていない。その意味では偽物であり、果たしてグールドの新録音といっていいものなのかどうか。しかし、ひとたびプレーヤーに音盤を載せ、耳にしたときの衝撃はグールドのバッハを聴くそれにまったく等しい。
物議を醸したリ・パフォーマンスのその後の情報を僕は知らない。アート・テイタムやセルゲイ・ラフマニノフ、あるいはオスカー・ピーターソンの録音が再創造されたらしいことは知っているが、実際にそれらを耳にしていないので僕には評価を云々する資格がない。
しかし、この(詳細を知り尽くした)ゴルトベルク変奏曲の再演については残念ながら感動が長続きしない。音楽が進むにつれ音楽そのものに、演奏そのものに温かみを感じないのである。物理的に冷たい、機械的な響きがどうにも感興を削ぐ。あの録音はもっと人肌の温もりを持った人間的な演奏でなかったか。
グレン・グールドが亡くなって早40年。光陰矢の如し。