先般リリースされたフルトヴェングラーの正規商業録音全集には2枚のボーナス・ディスクが収録されている。うち1枚には世界初発という(1950年10月1日のコペンハーゲンでのライヴ録音である)シューベルトの「未完成」交響曲を中心に、通し演奏によるテスト・レコーディングでこれまで陽の目を見なかった諸曲が収められているが、大抵は別の形でリリースされていたものも多く、その意味では真新しい発見はない(フルトヴェングラーの録音はもはや出尽くした感がある)。
多くは、ウォルター・レッグをプロデューサーとした録音なのだが、むしろフルトヴェングラーとレッグの関係についての方が、その音楽について考察し、論じるより面白い。
レッグはフルトヴェングラーをHMVの傘下に入れると、すぐにヘルベルト・フォン・カラヤンとも契約した。もしレッグがこの二人の指揮者の間にある激しい敵意について何か知っていたとしたら、カラヤンとの契約については再考したかもしれないし、あるいは二人のうち一人だけを選択したかもしれない。ともあれ、この時点におけるレッグの唯一の狙いは、帝国の建設だった―競合会社が手に入れる前に、できるだけ多くの欧州一流の音楽家を見つけ出して、その人たちによって演奏されるHMVのレパートリーを築き上げることだった。フルトヴェングラーは例によって被害妄想に達するほど疑い深かったため、レッグがカラヤンと契約したことについて怒りで青ざめ、また背信行為であると感じた。
~サム・H・白川著/藤岡啓介・加藤功泰・斎藤静代訳「フルトヴェングラー悪魔の楽匠・下」(アルファベータ)P219
知らぬが仏という言葉もあるが、レッグの場合、あくまでビジネスマンだった。彼にとってはどれだけ牌を増やすか、どれだけ儲けるか、それだけが興味の対象だったのである。
フルトヴェングラーとレッグの関係は最初から良好だとはいえなかった。疑心暗鬼の指揮者、プロデューサーからの指示を好まなかった音楽家、それがフルトヴェングラーだったからだ。
たとえば、《ジークフリートの葬送行進曲》を録音することになったとき、すでに我々はEMIからマイクの新品を2本渡されていました。そこで私はこのような大作を録音することが、マイクを実地でテストするのに優れた方法だと考えましたので、自然のままのバランスをとるためにマイクをホールのずっと奥に置いてみたらどうかと頼んでみました。レッグは賛成しました。フルトヴェングラーがやって来て、指揮を始めようとしました。そのとき、マイクがいつもの場所にないことに気づいたので、レッグに文句を言いました。レッグは、そのままやってみてくださいと頼みましたが、フルトヴェングラーは指揮をするのを断ったのです。それでレッグは私の方を向いて、マイクをいつもの場所に移すよう、ただし電源にはつながないようにと言いました。私たちはその通りにしました。フルトヴェングラーは演奏を開始し、我々は遠く離れた方のマイクで録音したわけです。フルトヴェングラーは再生したものを聴きましたが、問題ありませんでした。結局それが我々の新しいマイクロフォン技術を示すデモンストレーション用レコードになりました。
(アンソニー・C・グリフィスとの対話、1989年12月12日)
~同上書P223-224
レッグの片腕を務めた録音エンジニアであるグリフィスの後年になっての回想が興味深い。
これまで未発表だったとされるシューベルトの「未完成」はデンマーク放送音源。最後のチューニングなどの編集音源を除くと、すべてがEMIの有名な録音のテスト・バージョンであり、ウォルター・レッグがプロデュースを、アンソニー・グリフィスがエンジニアを務めたものだ。シュトラウスII世の「皇帝円舞曲」など、単なるワルツ小品の域を超え、さすがにフルトヴェングラーともいうべき交響的大作と化しており、(心揺さぶられ)実に魅力的。そして、おそらくグリフィスが回顧するマイクロフォンにまつわる録音であろう「ジークフリートの葬送行進曲」のいかにもフルトヴェングラーらしいデモーニッシュな、しかし、生き生きと生命力満ちる(?)音楽。さらには、シューベルトのロザムンデ間奏曲も、またチャイコフスキーのエレジーも、楽友協会大ホールの魅力的な音響にうっとりするくらい。
それに、チューニングやブザー、開始ミスなどを巧みに編集したピースが実に臨場感あり素晴らしい(ベートーヴェンの交響曲第7番から、シュトラウスII世とヨーゼフ・シュトラウスの合作であるピツィカート・ポルカから)。