この香しい時代の滴を受け
私の愛は生気を取り戻し 死に神も私に屈服した
死に神が言葉なき愚かな民衆に君臨しようと
私はこのつたない詩の中で生きるのだから
(ソネット第107番「愛の満期」)
~関口篤訳編「シェイクスピア詩集」(思潮社)P45
作品は時間を超越し、永遠の象徴となる。
時間とは生であり、また死だ。記号としての文字はいつまでも、そしてどこまでも世界を広げる。400年という時間を超えても、ウィリアム・シェイクスピアは偉大だ。
シェイクスピアと同時代を生きたジョン・ダウンランドの真実は謎の部分も多い。しかし、その生き様がどうであれ、あるいは彼の志が何であれ、彼の残した作品は永遠に生き延びるだろう。今やジャンルを超え、ダウランドの歌は、またリュート作品は演奏し継がれる。
簡潔でありながら、懐かしさを秘めたリュートの音と旋律美。
例えば「夢」を聴き給え。
どこかで聴き覚えのある旋律が浮かび上がる。いや、木霊といってよかろう。
なるほど。
それはホアキン・ロドリーゴ作「アランフエス協奏曲」の有名な第2楽章の主題だ。
ロドリーゴがここから引用したなどと言うエピソードはついぞ聞いたことがないが、あながちない話でもない。しかし、「想像力豊かによく聴けば」という前提付きだから、おそらく偶然の産物なんだろうと思う。
自分自身と向き合うことは、真の自分自身と出逢うということだ。
その出逢いを支えるような、可憐ながら厳しいリュートの孤独な音が御霊を鎮めてくれる。
古への崇高なる旅とでも表現しよう。
アントニー・ベイルズの爪弾くリュートが、僕たちの記憶を呼び戻し、400年前のあの頃に誘ってくれるのだ。おそらく僕はそれを現実に聴いていたのかもしれない。そんな錯覚に襲われる孤独なリュートよ。
きみを夏の日にくらべても
きみはもっと美しくもっとおだやかだ
はげしい風は五月のいとしい蕾をふるわせ
また夏の季節はあまりにも短い命
(ソネット第18番「夏の日」)
~同上書P16
諸行無常なり。