それにしても、トスカニーニについて書くことになり、何枚かのレコードをきいてみて、彼を正確に評価するのがいかにむずかしいかを、私は改めて痛感する。
~「吉田秀和全集5 指揮者について」(白水社)P111
吉田さんをしてそう言わしめたトスカニーニの音楽は、決して一筋縄ではいかない。
内燃するパッションと、使い古された「灼熱」という言葉を使う以外に老巨匠の表現を上手に言い当てる妙案が僕にはないのだが、丁寧に繰り返し聴いてみて、芯のある野太い音楽の光輝に今はただただ拝跪する。
長い間、僕はアルトゥーロ・トスカニーニを誤解していた。
まして、残響の少ない、ドライな放送録音に若気の至りで辟易することが多かったことも手伝って、残された記録を真面に聴くことなく、無視していたと言っても言い過ぎではない。
とにもかくにも今は反省するばかり。
ベートーヴェンやブラームスだけをきいていると、トスカニーニの表現は、どちらかというと単音楽的で、そこにはポリフォニックな思考やハーモニックなものからくる構造的な情感性とでもいったものが稀薄なのかという一抹の疑問が浮かぶ瞬間が、ときどきやってくるのだが、しかし、そうではないことを証拠だてるのが、彼のヴァーグナーの指揮である。
~同上書P118
吉田さんの論に抗いたいのではないのだが、しかし、僕にはベートーヴェンもブラームスも、何よりブラームスには構造的な情感性は聴こえてくる。例えば、交響曲第3番ヘ長調の終楽章アレグロでの(速めのテンポながら)内声部をあえて強調しないのに、しかし明確に全体が見えるその迫力と文字通り情感に感激できるのだから凄いものだと思う。
交響曲の方はカーネギー・ホールでのおそらくライヴ録音、協奏曲はお馴染み8Hスタジオでの放送録音である。明らかに音の拡がり、演奏の熱量は交響曲第3番の方が高い。第1楽章アレグロ・コン・ブリオ冒頭の金管の咆哮に度肝を抜かれるほど。同時にコーダの猛烈なティンパニの激震。やっぱりそれはトスカニーニのために結成されたNBC交響楽団の力量にも拠るだろう。
晩年のトスカニーニは、スポンサーの大石油会社が特に彼のために組織した交響楽団(例のNBC交響楽団)を使ってのラジオの公開放送にしか出演しなくなっていた。会場はカーネギー・ホールだった。公開放送なので、切符は無料なのだが、それだけにまたその入場券を手に入れるのがやたらとむずかしかった。申し込みが多いから、結局、全部、抽選となる。したがって当たらなかったら、いくら待ってもチャンスがこない。現に何年間もいつも申し込んでいて、まだ一度も当たったことがないという人も私は知っていた。金が大きくものをいうアメリカのような国で、たまに金の威力の全然きかないことがあったりすると、これはまた、やたらむずかしいことになるという実感をもったのは、そのおかげである。
~同上書P110
アメリカでの晩年のトスカニーニの演奏に触れ得ることが、宝くじを当てるよりも難しいことだったというのは、それほどに巨匠の実演が魅力的だったからに他ならない。実演を聴けた人は本当に幸運だったということだが、あれから70年が経過した今となってはむしろヘッドホンで虚心に、かつ一点に集中して聴くしかない。ただ、そうやって傾聴するトスカニーニの芸術は実に奥深い。このブラームスの記録も本当に素晴らしい。録音の古さなど何のその。ほとんどその日、その場に居合わせるかのような錯覚に陥るほど音楽そのものは生々しく、力があるのだ。感無量。