
仮の世界において、僕たちは既に迷い、酔っ払っているようなものだという人がいた。
真実を、真理を知れば知るほど、世界は大きく広がる。陰陽相対を超える眼を培ってこそ人生はより豊かになるのだと思う。
ピエール・ブーレーズが録音したマーラーの交響曲は、いかにも彼らしい、即物的な、逆にいうなら感情を超えた、意思の純度の高い音楽になっている。どれもが後期浪漫を超え、ただひたすらマーラーの音楽を感じさせるだけの力を持っている。晩年、ワーグナーの思想に近づいたマーラーの、死への恐れとは逆に死への憧れではなかったかとブーレーズのマーラーを聴いてふと思った。
「大地の歌」は酔狂の、何とも厭世的な世界観を描き出すけれど、ブーレーズのそれは極めて中庸だった。楽観も悲観もない、実に中和の、夢中の「大地の歌」はとても美しかった。
それにもまして夢の中にあるかのようなリュッケルト歌曲集、あるいは亡き子を偲ぶ歌。
なんと静かな、落ち着いた音楽であることか。
ウィーン・フィルらしい、柔和な管弦楽の音響がそれぞれの歌に花を添える。
ウルマーナによる「リュッケルト歌曲集」は実に思い入れたっぷりの歌唱だが、ブーレーズの率いる管弦楽は面白いように醒めているように僕には聴こえる。
同様に、フォン・オッターを独唱者に据えた「亡き子を偲ぶ歌」の喜び。実に夢中のこの世界からようやく魂が解放される(された)喜びが聴こえるのだ(もちろん子どもとの一時の別れは辛かろうが)。
親愛なるフォン・ツェムリンスキイ様!
一度ご来向願えませんでしょうか、我々のこの件はお会いしてお話しなければなりますまい。
今日の午後など、拙宅にて「ブラックコーヒー」をお召し上がりになるのはいかがでしょうか。
もしそうしていただけるなら、2時頃にお願いいたします。
心からあなたのマーラー
よろしければシェーンベルクもご一緒に。
(1905年頃)
~ヘルタ・ブラウコップフ編/須永恒雄訳「マーラー書簡集」(法政大学出版局)P312
実にリアルで、プライベートな手紙が興味深い。
この件とは、「作曲家同盟」コンサートで、「亡き子を偲ぶ歌」を含めマーラーの全歌曲を初演することである。当時はまだまだ前衛であっただろうマーラーの歌曲すべてが披露されるという奇蹟! そして、その打ち合わせに立ち会うのがツェムリンスキーにシェーンベルクとは!
ブーレーズが指揮する3つの歌曲集はいずれもが脱力の、無為自然の歌。
少なくともここではブーレーズの「我(が)」は機能しない。あくまで歌手の声を前面に引き出し、黒子に徹して棒を振る老境の枯れた味わいがすべてを覆う。嗚呼、美しき哉。