
果たして日本語訳がいまひとつなのだが、ブレーズ・パスカルの言葉に、言葉の真意に、言葉の持つ力に大いに感化される。有名な「パンセ」にはこうある。
詩人という看板をかかげなければ、世間では詩に通じているとみなされない。数学者その他もおなじである。だが、普遍人は看板を欲せず、また詩人の職と刺繍師のそれとのあいだに、ほとんど差別をつけない。
~パスカル/由木康訳「パンセ」(白水社)P24
かつて岡本太郎が、名前なんていう無意味なものを分別臭く付けているのは人間だけで、それほど愚かなことはないと喝破されていたことを思い出す。俗世間で生きる以上確かに看板は必要だろう。しかし、視野を広げ、視座を上げたとき、すなわち時間と空間を超え、霊性レベルで事を考えたとき、確かにすべてを分け隔てる名前など不要だということがわかる。
真人。—「かれは数学者だ」とか、「説教者だ」とか、「雄弁家だ」とか(言われ)ないで、ただ「かれは真人だ」と言われるようでなければならない。この一般的な性質だけを、わたしはこのむ。
~同上書P25
真か偽か。何事においても確認されるべきはそのことに尽きるのだろうと思う。
スコット・ロスのドメニコ・スカルラッティ。
30余年前の奇蹟は、現代にも通じる奇蹟だ。それこそ時空を超えた空前の旅であり、ハープシコードの雅な音が実に攻撃的に、しかし和して響く(本来草書的な技術を持ち合わせているであろうロスが実に楷書的な演奏を聴かせてくれるのがミソ)。
愛するソナタホ長調Kk380(L23/P483)は、実に晴朗な音色。例によって推進力高いロスの演奏は文字通り普遍的であり、また真だ。ドメニコ・スカルラッティに対峙するときの幸福よ。
幸福は一つの永続する状態で、この世の人間向きにできているようには思えない。この地上では一切がたえまなく流動していて、そのため何ものも一定不変の形態をとることは許されない。私たちのまわりではすべてが変化する。私たち自身も変わる。今日、自分の好きなことが、明日も好きかどうかはだれにも確信できない。それゆえ、現世のための、私たちの幸福設計は、すべて夢、幻である。精神の満足が得られるときには、それをいい方向に役立てよう。謝ってそれを遠ざけたりしないよう気をつけよう。
「第九の散歩」
~ルソー著/佐々木康之訳「孤独な散歩者の夢想」(白水社)P129
真実、真理にたどり着いてこそ真の幸福が味わえることをルソーは知っていた。ただし、ルソーの見解は少々堅い(ように僕は思う)。