マタチッチ指揮フランス国立管 ブルックナー 交響曲第5番(ノヴァーク版)(1979.5.21Live)

尾高忠明指揮大阪フィル東京定期のブルックナーには心底圧倒された。衝撃だったとさえ言っても良いくらい。あれほど集中力に富み、細部にわたって丁寧に、しかも全体観をもって悠々と表現された交響曲第3番をこれまで僕は聴いたことがなかった。
楽想のブロックの緊密な連関から創出されるシナジーと、ブルックナー特有のゲネラルパウゼから生じる絶対的間(ま)、すなわち静寂の美しさを体現する名演奏であったとあらためて思う。それでこそ空間が生きる、マクロコスモス的拡散とミクロコスモス的収束の交替に僕は息を飲んだ。

「和音の分裂Tonspaltung」はブルックナーに顕著な作曲上の特徴である。しかしながら、その中には、ブルックナーの「広さの意識」に対する萌芽のひとつがある。それはあたかも、大規模で見事な構成を誇る建築作品の中で、ある角を曲がると、突然、新たな予期せざる光景として、広いアーチ天井や丸屋根が目に飛び込んでくるようなものだ。ザンクト・フローリアンの修道院教会では(このように丸屋根が上にそびえるバロック教会ならどこでもそうだが)、こうしたことが起こりうる。あるいはまた、例えばザンクト・フローリアンの大理石の大広間に入るとき、聖職者の廊下から小さな接合部を出ると、突然、光が射しめぐる広がりの中にこの広大な空間が存在する。ブルックナーの音楽は、しばしばこうした連想を呼び起こすのである。
(ブルックナーの音楽における「広さ」の概念)
レオポルト・ノヴァーク著/樋口隆一訳「ブルックナー研究」(音楽之友社)P74

人間は潜在的に(視覚に入る)環境の刷り込みを持つようだ。
レオポルト・ノヴァークの、「広さの意識」に対する萌芽とは言い得て妙。
ならば演奏においては、ブルックナーの楽想ブロックの積み上げ、あるいは転換、展開と、そこから生まれる「間(ま)」をいかに血が通って表現できるかが鍵だろう。

濃厚な正統的演奏。ただし、(録音のせいか)金管群が弱い分、マタチッチにしては爆演とは言い難い。(昨夜のような名演奏に触れると)どれほどの傑作を思わせようと録音では隔靴掻痒の思いを拭えないのである。ブルックナーの「広さの意識」を意識するには、やはり実演を聴かねばならない。

・ブルックナー:交響曲第5番変ロ長調(ノヴァーク版)
ロヴロ・フォン・マタチッチ指揮フランス国立管弦楽団(1979.5.21Live)

フランスはパリ、シャンゼリゼ劇場でのライヴ録音。
晩年のマタチッチの、野人のような、豪放磊落なブルックナー。急なアクセルとブレーキの入り乱れる恣意的なシーンが散見されるものの、特に終楽章は聴きどころ。コーダに至る山塊のような「ブロック」の自由な転換に舌を巻き、猛烈に遅いテンポの最後のクライマックスのシーンに僕は思わず興奮する。

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