シュライアー ヴァラディ マティス ベルガンサ ベーム指揮シュターツカペレ・ドレスデン モーツァルト 歌劇「皇帝ティートの慈悲」K.621(1979.1録音)

伊達に「魔笛」を創造した男ではない。
本人の意志とは別に魂は確実に機能していたのだろうと思う。
相対を超えた後に残るのは、真の慈しみだとモーツァルトは訴えたかったのかも。

しかし、世間の、評論家を含めた世界の見方は違っていた。
歌劇「皇帝ティートの慈悲」はいわゆる駄作というレッテルを貼られてしまい、長らく歴史の大海に沈むことになった。

これを書いているモーツァルトは明らかに“第三期”のモーツァルトであるが、やむなく少年期のスタイルに立ち戻ることを強いられている。しかし、それは不可能なことである。《イドメネオ》は力の絶頂期にある青年の作品で、なによりも自分の感情を表現すること、持てるすべてを傾注することに意を注いだものである。《皇帝ティトゥスの慈悲》は、健康を害し、過労のために衰えていた人間によって、しかも意に反して大至急書くことを強制されたオペラである。彼はまた聴衆がどんな人間であるかを心得ていた。ヨーゼフ2世に、「音が多すぎるね、モーツァルト君」と言われたことを覚えていた彼はことさらに平明なスタイル、時代遅れのわかりやすいメロディ、簡単なハーモニー、薄手のオーケストレーションを採用した。長くて堂々としているはずのアリアは、できるだけ短くなっている。
エドワード・J・デント/石井宏・春日秀道訳「モーツァルトのオペラ」(草思社)P251-252

音楽作品たるや少なくとも委嘱者の期待に応えねばならぬもの。
モーツァルトの頭にあったこともそうに違いない。確かに外見はデントの論ずるとおりだ。しかし、その簡明な、単純な書法の内に、最晩年のモーツァルトの思念を超えた思念が宿るのを僕は信じたい。

ちなみに、カール・ベームの演奏はどれもが優れている。「ティートの慈悲」についても然り。
ベームがこのオペラをどう思っていたのか、僕は知らない。しかし、少なくとも彼には愛がある、「ティート」はもちろんモーツァルトへの慈しみに溢れている。

・モーツァルト:歌劇「皇帝ティートの慈悲」K.621
ペーター・シュライアー(ローマ皇帝ティート、テノール)
ユリア・ヴァラディ(先帝ヴィッテリオの娘ヴィッテリア、ソプラノ)
エディット・マティス(セストの妹でアンンイオの恋人セルヴィリア、ソプラノ)
テレサ・ベルガンサ(ティートの友人でヴィッテリアの恋人セスト、メゾソプラノ)
マルガ・シムル(セストの友人でセルヴィリアの恋人アンニオ、ソプラノ)
テオ・アダム(近衛隊長官プブリオ、バス)
ライプツィヒ放送合唱団
ヨアヒム・ミュラー(バセット・クラリネット)
ロルフ・シンドラー(バセット・ホルン)
ヨアヒム・ビショフ(チェロ/通奏低音)
ワルター・タウジヒ(チェンバロ)
カール・ベーム指揮シュターツカペレ・ドレスデン(1979.1録音)

デントも認める第1幕第9番セストのアリア「私は行く」はバセット・クラリネットのオブリガート付きで、ベルガンサのメゾとあわせ実に情感豊かで美しい。ここでの老ベームの指揮は堂々たる趣を示す。ちなみに、バセット・クラリネットは、初演では名手アントン・シュタードラーが演奏したらしい。
あるいは、第2幕第23番ヴィッテリアのロンド「花の美しい鎹(かすがい)を編もうと」もヴァラディの思い入れたっぷりのソプラノがモーツァルトの音楽に花を添える(バセット・ホルンのオブリガート付き)。
極めつけは第2幕フィナーレの第26番合唱付六重奏。ここは最晩年なれど、いかにもモーツァルトらしい愉悦に溢れる音楽が鳴る。

自らの内なる慈しみをいかに発動できるかが鍵だということをモーツァルトは知っていた。
もはや35歳で召された意味は、人生の意味を理解したがゆえだろう。残念ながら生死の解決には届かなかったけれど。

人気ブログランキング


コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

アレグロ・コン・ブリオをもっと見る

今すぐ購読し、続きを読んで、すべてのアーカイブにアクセスしましょう。

続きを読む