ヴァルヒャ J.S.バッハ トッカータとフーガBWV565(1956.9録音)ほか

「鳥は卵の中からぬけ出ようと戦う。卵は世界だ。生まれようと欲するものは、一つの世界を破壊しなければならない。鳥は神に向かって飛ぶ。神の名はアプラクサスという」
この数行をいくども読んだのち、私は深い瞑想に沈んだ。疑いの余地はなかった。それはデミアンの返事だった。私と彼よりほか、だれもあの鳥のことを知ってるはずがなかった。彼は私の絵を受け取ったのだ。彼は理解したうえで、私の解釈を助けたのだ。だが、全体のいきさつはどうなっていたのか。そして—これはとりわけ私を悩ましたことだが—アプラクサスとはなんのことか。私はこのことばをついぞ聞いたことも読んだこともなかった。
「神の名はアプラクサスという!」

ヘルマン・ヘッセ/高橋健二訳「デミアン」(新潮文庫)P136-137

神の名が何て言うかなどはどうでも良い話だ。名前そのものは僕たちの識別のための機能であって、そのこと自体に意味はないからだ。信仰心篤いヘッセは、世界の真実を知っていたのだと思う。

そのときデミアンは、われわれはあがめる神を持ってはいるが、その神は、かってに引き離された世界の半分(すなわち公認の「明るい」世界)にすぎない、人は世界全体をあがめることができなければならない、すなわち、悪魔をも兼ねる神を持つか、神の礼拝と並んで悪魔の礼拝をもはじめるかしなければならない、と言った。—さてアプラクサスは、神でも悪魔でもある神であった。
~同上書P139

「六祖壇経」にある「不思善不思悪」の精神は世界中どこにでもあったのか。二元世界においては神と悪魔は一体だということを忘れてはなるまい。

バッハの音楽には一体となった光と翳がある。どちらにも偏らず、相互に作用し合う光と翳の共存こそ世界の本質であり、バッハの音楽の神髄だ。

町を歩いているとき、町はずれの小さな教会からオルガンの響いて来るのを二、三度聞いたことがあった。止まって聞きはしなかったが、そのつぎに通り過ぎると、また聞こえ、バッハがひかれているのがわかった。門まで行くと、しまっていた。その小路はほとんど人通りがなかったので、私は教会のそばの縁石にこしかけ、オーバーのえりを立てて耳をすました。大きくはないが、いいオルガンだった。意力と粘りのある独特な極度に個性的な—祈りのように聞こえる表現を伴う、すばらしい演奏だった。その中でひいている人は、この音楽の中に一つの宝が秘められているのを知って、自分の生命を求めるようにこの宝を求め、そのためにオルガンをたたき努力しているのだ、というふうに、私には感じられた。
~同上書P146

僕は(カール・リヒターではなく)盲目のオルガニスト、ヘルムート・ヴァルヒャを想起した。

ヨハン・セバスティアン・バッハ:
・トッカータとフーガニ短調BWV565(1956.9録音)
・トッカータとフーガヘ長調BWV540(1962.9録音)
・トッカータとフーガBWV538「ドーリア調」(1962.9録音)
・トッカータ、アダージョとフーガハ長調BWV564(1956.9録音)
・幻想曲とフーガト短調BWV542(1962.9録音)
ヘルムート・ヴァルヒャ(オルガン)

ヴァルヒャは、幼い頃の天然痘のワクチン接種の後遺症で19歳の時に失明したらしい(いつの時代もそういう問題は絶えない)。彼のバッハには、盲目だからこその純粋さと力がある。それは確かに「意力」と言い換えても良いであろう力だ。
何よりフーガの魔法。意力とは言え、無為自然のエネルギーに満ちるバッハは実に素敵だ。

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