何者をも怖れぬ奔放さ。
決して枠にはまらない自由さ。
さぞかし、生きるのが大変だろうと思うものの、当人はまったくそんなことは気にもならないよう。それでいて他人想いで優しい。まさに「嫌われる勇気」である。
「幻想ポロネーズ」は、傑作中の傑作。ショパンの数多の作品の中で群を抜くものだと僕は思うが、マルタ・アルゲリッチは実に美しい色彩と華麗な音響をもって「音」を紡ぐ。音楽が前進するにつれその様相はますます強烈となり、第3部、すなわち主題の再現以降の音楽は「幻想」という名の通りの、この世のものとは思えない霊妙さに満ちる。
そしてまた、「英雄ポロネーズ」にみる、雄渾でありながらやはり女性らしい柔和さの見事な対比。猛烈なスピード感と、それでも一向に崩れることのない造形の堅牢さ。自由でありながら手堅いという、一見矛盾するようなスタイルを体現するのがアルゲリッチなのだ。
あるいは、「3つのマズルカ」作品59の、さらっと流し、思い入れも何もないように見える快速の演奏に、ポーランドの農民舞踊の刹那の哀感を思う。「マズルカ」という形式は、ショパンの深層吐露でありアルゲリッチの心情告白なのだろう、人生とは一瞬の物語なのだという諦めにも似た憧れと悲しみと。このピアノの煌めきは一体何なのか?
1845年―ショパン自身が自分でも意識しているように「今はぼくの人生の混乱期、というより倦怠期」であった。冬になると重くなる病気、サンド家の内輪もめ、パリのポーランド亡命者の脱落、これらが相重なってショパンを沈滞にひき込んでいく。
~アーサー・ヘドレイ著/小松雄一郎訳「ショパンの手紙」(白水社)P337
ショパン:
・ピアノ・ソナタ第3番ロ短調作品58
・ポロネーズ第7番変イ長調作品61「幻想」
・ポロネーズ第6番変イ長調作品53「英雄」
・3つのマズルカ作品59
―第1番イ短調
―第2番変イ長調
―第3番嬰へ短調
マルタ・アルゲリッチ(ピアノ)(1967.1録音)
ところで、この録音が行われた少しあと、吉田秀和さんはアルゲリッチの実演をベルリンで初めて聴かれたそう。
私は、きいて驚き、そうして魅せられた。もっとも、そのあと日本に戻ってきたら、今度は日本でも彼女はえらく評判になっていて、みんな前から彼女の天才を知っていたみたいにいったり書いたりしている。これにも、私は二度びっくりした。
~「吉田秀和全集6ピアニストについて」(白水社)P233
吉田さんの鋭敏な感性を即座に捉えた若きアルゲリッチの天才はやっぱり本物だ。
この女性は公衆の心を掴むに充分な魅力をもっているのだが、そのうえ、音楽がまったく独特である。彼女は肉体の中に自分の音楽をもっている。ドイツ風にいえば、urmusikalischなのだ。頭(知性)も胸(心)も、肉体の一部であって、それと対立したり、それから別のところに逃れ、独立しようとするものではない。だから、ときどき彼女の演奏にはすごいむらもあるが、それだけ良い時は全体的な、一つの絶対の音楽となる。
~同上書P236
「肉体の中に音楽をもつ」とは言い得て妙。
理性と感性、あるいは悟性の間での揺れる、その「揺れ」こそが彼女の真髄なのである。
ちなみに、この日のアンコールは「3つのマズルカ」諾品59だったらしい。その演奏についての吉田さんの詳細な言及はないが、果たしてどんな音楽だったのだろう・・・。
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では、ご期待どおりに今夜もシンクロさせておきましょうか(笑)。
アルゲリッチこそが、「いま、ここ」の体現者なんでしょうね。
「いま、ここ」を真剣に生き、その刹那はつねに完結したものである、と?
・・・・・・上座部仏教の一宗派である説一切有部では、人間の意識は一刹那の間に生成消滅(刹那消滅)を繰り返す心の相続運動であるとする。それについて曹洞宗の道元は、『正法眼蔵』の「発菩提くましかもやになんくもみまんなのなかきにんりにまのんひな心」巻で、悟りを求める意志も、悟りを開こうとするのもその無常性を前にするからであり、常に変化するからこそ、悪が消滅し、善が生まれるのであると説く。・・・・・・Wikipedia 「刹那」より
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%B9%E9%82%A3
>雅之様
>その刹那はつねに完結したものである、と?
『正法眼蔵』の奥深さには畏怖の念を抱きます。僕ごときが太刀打ちできる対象ではないので、言及は避けますが、雅之さんがおっしゃるように、刹那は完結したものであると同時に、永遠なのだと思います。一瞬の中にすべてがあるのでは、ということです。あまりに形而上的ですが・・・。