アバド指揮シカゴ響 チャイコフスキー 交響曲第1番「冬の日の幻想」ほか(1991.3録音)

「それでも、やはり痛い。肉体的に苦痛なのだ。なぜこんな痛みがあるのだろう?」と人々はたずねる。「なぜなら、われわれにとってそれが必要なだけでなく、痛くないなどということなしに生きてゆかれないからだ」われわれに痛い思いをさせこそしたが、痛みをできるかぎり少なくして、この痛みから生ずる幸福をできるだけ大きくしてくれた人なら、こう答えるに違いない。
トルストイ/原卓也訳「人生論」(新潮文庫)P201

本性に宿るのは実際のところ喜びや希望しかないそうだから、それならば僕たちは何を学びに生まれてきたのか?
トルストイが言うように、悲しみを、苦しみを味わうために、体験するために生まれてきたのだと言っても言い過ぎではなかろう。

冬の太陽が輝く真昼に、チャイコフスキーは幻を見たそうだ。
冷たい空気と凍てつく大地を照らす太陽は天の恵みであり、また慈しみの顕現だ。
若きチャイコフスキーがその幻を音化したと捉えて良いものなのかどうなのか、終楽章に民謡を引用しての最初の交響曲は、農奴解放の時期における作曲家のナロードニキ的思想を反映したものだといわれるが、果たしていかに?
音楽は終始民謡風の旋律で満たされ、同時に力強く、革命的な音調で前のめりだ。

チャイコフスキー:
・交響曲第1番ト短調作品13「冬の日の幻想」(1866/74)
・バレエ音楽「くるみ割り人形」組曲作品71a(1891-92)
クラウディオ・アバド指揮シカゴ交響楽団(1991.3.12, 15&16録音)

作曲当初からすんなり受け入れられたとは言い難い最初の交響曲は、三度(みたび)改訂を繰り返し、ようやく第3稿が完成したのが1874年。あくまで個人的にだが、素晴らしいのは、やはり終楽章アンダンテ・ルグーブレで、後半アレグロ・モデラートのシーンで情感豊かにクライマクスを築き上げ、第1主題が総奏で現われた後のロシア的解決法に胸がすく。

なるほど、確かにこの日常こそが幻想だ。そして、世間を照らす眩しい太陽は人生の指針であり、僕たちを迷いから目覚めさせてくれる善知識だ。ロシア社会に幻滅したチャイコフスキーは、音楽をもって鬱積した世界の変革を試みようとしたのかも。ちなみに、ここでのアバドの指揮は極めてオーソドックス。作曲家の意志に忠実に音楽を再現する。

一方、「くるみ割り人形」組曲の、「何も引かず、何も足さず」的な自然体の音楽にある安心感よ。アバドの指揮はもとよりチャイコフスキーの創造力が発揮された傑作だとあらためて思う。

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