宇崎竜童 井上鑑 德川眞弓 「葉っぱのフレディ」—いのちの旅—(2020.11&12録音)

自分の道は自分で切り開きなさい、というのが世の中の考え方だ。
私たちは、人に頼らずにすむようになってやっと一人前だ、と思っている。何かを求めるのはまだ未熟だからだ、だれかに頼るのは弱いからだ、と思っている。人と深くかかわることは、自立や自由を損なうことだと思っている。
私たちは、ほんものの出会いや愛の絆を心から望んでいるにもかかわらず、このような考え方のために、自分から壁を築いているのだ。
まったくこれは、なんと矛盾したことであろうか。一方で、自由や解放そして自立を求め、もう一方では、だれかと一緒にいることを願っている。

レオ・バスカリア/草柳大蔵訳「愛するということ、愛されるということ」(三笠書房)P210

世界は呼吸の中にあることを知らねばならない。そこには命があり、生があり、また死がある。僕たちは知らないことに恐怖を持つが、生も死も決して恐れるものではない。それらはすべて進歩、発展の、変化、変容の過程に過ぎないのだから。

レオ・バスカリア作「葉っぱのフレディ—いのちの旅」を聴いた。
音楽は井上鑑、朗読は宇崎竜童、そして、ピアノは德川眞弓。
最後は落ちて、朽ちる葉っぱのフレディの短い一生が、生の喜びと死を恐れぬ生き方に溢れ、描かれる。生きとし生けるものの命のバトンは終わることなく輪廻を繰り返すが、一方で、そういう時代はもはや終わったことを知った方が良い。命が輪廻から救われる方法が、唯一あるのだということを。
大自然と溶け合うように生きることの大切さ。德川眞弓のピアノの、何と純度の高い、そして生命力宿る音か。もちろん宇崎竜童の朗読は、(高慢の鼻をへし折られた)20余年前の体験を乗り越えた老境の人だけに成せる真の愛に目覚めた者の声だ。

ダウン・タウン・ブギウギ・バンドで名を知られ、百恵さんのヒット曲を作ったというプライドや自信もありましたが、鼻を折られたのは53歳のときです。レコード会社のアーティスト整理にあい、要はクビになり外に放り出された。よし初心に戻ってイチから出直しだと、Tシャツ1枚ジーンズ1枚でバイクに乗って、生まれ故郷の京都まで60ヵ所、弾き語りのライブ旅に出ました。「宇崎竜童が来る」と町中が拍手喝采の歓迎ムードだろうと期待していたのに、ある主催者が困り顔で「すぐ完売すると思ったんですが、チケットが全く売れません」と言うんです。現実を知って泣きたくなりましたね。別に自分が大スターだとは思っていませんよ。けれど大都市のホールじゃなくて小さな町のライブハウス。お客さんは来てくれるものと高をくくっていたんです。ところが実際は「売れない」。惨めですしショックでしたよ。ああ俺は勘違いしていたんだ、こんなんじゃダメだと自分を見つめ直すきっかけになりましたね。
~PARTNER(パートナー)2021年6月号(三菱UFJニコス)P13-14

万物流転。過去の栄光にすがることほど愚かなことはない(金ではない、德が大事なんだという、弟たちに宛てたベートーヴェンの遺書を思い出すべし)。

・「葉っぱのフレディ」—いのちの旅—(2020.11.24, 12.8 &14録音)
レオ・バスカリア作/みらいなな日本語訳
音楽:井上鑑作曲「葉っぱのフレディ」のテーマによる7つのパラフレーズ(1999)、A Life As A Leaf(2020)
宇崎竜童(語り)
井上鑑(キーボード、アコーディオン)
德川眞弓(ピアノ)

井上鑑作曲によるパラフレーズは、それぞれが物語のシーンを見事に描いており、喜びと感傷に溢れている。自身のキーボードやアコーディオン演奏でのリアルな息遣いもさることながら、フレディと一心同体となって命を紡ぐ、自然を謳歌する德川眞弓のピアノが相変わらず美しい。

宇崎は続けて語る。

それ以前には、過去のヒット曲は歌わないと宣言して周囲を困惑させたこともありました。北海道だったかな、ライブ会場の出口にいたおばあさんに「何で『港のヨーコ』やんねぇんだ?」って言われましたね。そしたら阿木耀子に叱られたんです。「売れた作品であろうが何だろうが、あなた、作った作品が自分だけのものだと思ってないか」とピシャリ。「音楽や映画は、それを見たり聴いたりする人のもの。それをもう歌いませんとか勝手に決めて、あなたは全然ファンや聴衆のことを思いやっていないわね」と。きつい言葉がグサッと心に刺さりました。彼女の言うとおりなんです。阿木は聴衆のこと、そして私のことを真剣に、純粋に考えてくれる。最も信頼できる人ですし、作詞家という曲作りのパートナーでもあり夫婦というパートナーでもあります。
~同上誌P14

すべてが双方向であり、つながりの中にあるのだということをこの人は教えてくれる。そして、つながりを機能させるのに最も大切な心構えが「謙虚さ」だ。「葉っぱのフレディ」を朗読する宇崎の声には、間違いなくその「謙虚さ」が宿る。すべての命に感謝し、懺悔せんとする慈しみの音だ。

特筆すべきは、松本隆の日本語詞を掉尾に付したカタロニア民謡「鳥の歌」。猪上鑑の奏でる音楽の極めつけの哀感よ。しかし、そこには実際、希望しかない。

私たちは人間関係なしには、生きることも成長することもできない。私たちは生れたときから、人とかかわることの必要性と重要性にだんだんと気づいていく。
人類は、他人に依存して生きる期間は、あらゆる生物のなかで最も長い。生まれたての無力な赤ん坊にとっては、母親とのかかわりが人生で最初の人間関係だ。その後、生活の幅が広がっていくにつれ、さらにいろいろな人とかかわりをもつようになる。
いいかえれば、私たちは一生をかけてさまざまな人間関係を織りなしていき、クモの巣のように複雑にからみあったひとつの模様を完成させていくのだといえる。
私たちが生きていけるかどうかは人間関係にかかっている、といってもいいのではないだろうか。

レオ・バスカリア/草柳大蔵訳「愛するということ、愛されるということ」(三笠書房)P36-37

関係の中にあるのは人間だけではない。すべてが関係の中にあり、枯葉になったフレディも、ついに土と化し、木を育てる力となる。感謝。

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