序奏からアバドの明確な棒が愉悦の輪郭を描き、ロッシーニの名作を現代に蘇らせる。音楽の推進力は筆舌に尽くし難く、第2場レチタティーヴォとアリア冒頭の、ベートーヴェンの変ロ長調交響曲、あるいはバッハのオルガン曲の引用に僕は思わず快哉を叫ぶ。ホテル「黄金の百合」での、何ということのない物語が、ロッシーニによる高尚な音楽(?)のパロディによって一層引き締まり、同時にオペラをより豊穣なものに押し上げる。
ロッシーニは1822年3月末にウィーン入りし、4月13日から3ヶ月半、「ロッシーニ・フェスティヴァル」を開催した。ちなみに、ベートーヴェンにはその期間中に会ったようだが、二人の対話の内容は明らかになっていない。
1822年6月7日に弟ヨハンが「ロッシーニは私とちょうどいま出会って、私にきわめて友好的に挨拶しました。彼はあなたと話をすることをとても望んでいる。あなたがここに居ることを知ったら彼はすぐに来たでしょう」、そしてしばらく後、「ロッシーニは彼のオペラで金持ちになった、と私は思うのですが、あなたももっとオペラを書くべきで、そうなりますよ」と記入している。ベートーヴェン弟とロッシーニは本来的には面識がないのであって、これは街で偶然出会ったような感じなので、兄を通してすでに知り合いになっていたと想像できる。
~大崎滋生著「ベートーヴェン像再構築3」(春秋社)P1019
当時の会話帳には上記のようにあるそうだ。その頃、ウィーンではかなりのロッシーニ旋風が巻き起こっていて、ベートーヴェンも多少なりとも多少の見聞により少なからず影響を受けていた可能性があろう。そして、当時のベートーヴェンの耳疾の関係で、二人の対話が決して明るいものではなかったことも確かなようだ。
いささか信憑性のありそうな、さもありなんとする話が、エドゥアルト・ハンスリック(1825-1904)によって1867年にパリで晩年のロッシーニと会見した談話として記録されている。「私は非常に正確にベートーヴェンについて覚えています、半世紀もたっていますが。(中略)イタリアの詩人カルパーニに仲介してもらい、同人は私たちをただちにそして丁重に迎え入れてくれました。もちろん訪問は長くなかったのですが、というのはベートーヴェンとの会話はずばりばつの悪いものでした。彼はその日はとりわけ聞こえが悪く、私が最大に叫んでも、解ってもらえませんでした。イタリア語に慣れていなかったことが彼には会話をなおのこと困難にしたのかもしれません」
~同上書P1020
ベートーヴェンのロッシーニに対する評価は辛辣であった。最初の邂逅の時、「君はコミック・オペラだけを書くように」と言ったとか言わないとか。それに、実際に、ベートーヴェンはロッシーニの2度目の訪問を拒否したともいわれる。
しかしながら、当時のロッシーニ人気は途轍もないものだったことは間違いない。ウィーンでの成功に気を良くしたロッシーニは、翌年以降外国に新天地を求め、祖国イタリアを離れることになる。
シャルル10世の戴冠式のために書かれた歌劇「ランスへの旅」。1825年6月19日、パリのイタリア劇場にて初演。
1幕9場のコミック・オペラの愉しみよ。
何よりショスタコーヴィチ顔負けの数多の引用が、聴く者の心の琴線を喜びで覆い、揺るがす様子にロッシーニの天才を思う。第9場フィナーレでのドイツ国家(皇帝讃歌)、ロシア国家、スペイン民謡、イギリス国家、フランス民謡、そしてチロル民謡の旋律が順に披露され、最後にはマクネアー扮するコリンナの即興から全員による国王讃歌という流れが圧巻! とにかくベルリン・フィルの上手さが光る精緻な演奏にも言葉がない。
晩年には数々の生活習慣病に侵され、命を落とすことになったジョアキーノ・ロッシーニ。
早くも30代でセミ・リタイヤ的な生き方に移行し、優雅な暮らしを追求したものの、いわゆる三大欲求にとりつかれた(?)彼の人生は、果たして幸福だったといえるのか、どうなのか。最晩年のベートーヴェンが嫉妬した(?)ともいわれるロッシーニの類稀なる才能をもってしても、その志がどうだったのか問われたときに、人間の本性、というか本質、根本の意義が明らかになる。類稀なる才能や外面を磨き上げることも大事だが、一層重要なのは心、すなわち根本、根源を明らかにすることだろう。