
モーリス・ラヴェルの真価は、洗練されたエキゾチックさにあるのだと思った。
モーリス・ベジャールの傑作「エロス・タナトス」は、愛と死とを同期した、永遠のパルスを刻む肉体美の舞踊だったが、ここにも同じく洗練されたエキゾチックさを僕は感じていた。そういえば、ジョルジュ・ドンがソロをとってからベジャールの「ボレロ」は一躍有名になり、一世を風靡したが、ドンが有していたのも洗練されたエキゾチックさではなかったか。
あの「ボレロ」の演奏は誰のもだったのか僕は知らない。
ただ、「ボレロ」といえば、僕の記憶の中で、というより徹底的な刷り込みによって唯一無二の録音になっているのがアンドレ・クリュイタンス指揮のものだ。一部の隙もないリズムの饗宴、そしてその上をうねるエロティックな(?)旋律。これぞ生の謳歌であり、愛の表現だと僕は思う。
一方、愛が死によって真に成就されるそのシーンを切り取ったのが「ラ・ヴァルス」だ。「ボレロ」の兄弟ともいうべき(?)「ラ・ヴァルス」には死の匂いが付きまとう。この曲こそ実演に触れねば神髄を悟ることは無理なのだが、それでもやはりクリュイタンスの棒に感化された僕の耳には彼がパリ音楽院管弦楽団を振った音盤が懐かしい。
ラヴェル:
・ボレロM.81
・ラ・ヴァルスM.72
・スペイン狂詩曲M.54
アンドレ・クリュイタンス指揮パリ音楽院管弦楽団(1961録音)
内側から熱いものがこみ上げる。
お粗末な比喩だけれど、風邪で高熱を出し、寝込んだときの幻聴のような印象。もともとラヴェルの音楽に僕はそういう趣を感じていたのだけれど、クリュイタンスの創造する音楽には一層そういう幻想的なものを想像してしまう。
それは、やっと24時間前にこの世に生れ出たすべての嬰児への、贈物の分配に着手しようとしている妖精の大集会であった。
これら総て、古風にしてまた気紛れな運命の姉妹たち、これら総て、歓喜と苦悩との怪奇なる母親たちは、千差万別とりどりの容子を見せていた。或ものは陰鬱で無愛想な態度を示し、また或ものは悪巫山戯て腹の黒い容子に見える。嘗て常に若かりし者は、今もまた若く、嘗て常に老いたりし者は、今もまたやはり年老いた姿でいる。
これらの妖精たちに信を置く世の父親らは、己がじしその嬰児を腕に抱いて、残らずここに来り会している。
「妖精の贈物」
~ボードレール/三好達治訳「巴里の憂鬱」(新潮文庫)P70
生も死も一体であり、神の贈物なんだと知る。