
チャイコーフスキイの音楽の魅力は、何よりも、その分かりやすさにある。どのジャンルの曲であっても、彼の音楽には一度聴くと忘れられないような親しみやすさがある。しかしこのような分かりやすさとか親しみやすさだけが、彼の音楽の魅力なのだろうか。ロシア最大の音楽学者として尊敬されているアサーフィエフ(1884-1948)に、「私はチャイコーフスキイの前に深くひざまずかずにはいられない。彼の音楽が私を『音楽』への思索に導いたのだから」というのがある。この偉大な音楽学者はチャイコーフスキイの音楽によって、音楽のことを考えるようになったというのである。つまり、彼の音楽の構造が秘めているものがなんであるかを考えることから、音楽そのものについて考えるようになった、というのである。チャイコーフスキイの音楽がいつまでもその魅力を失わないのは、分かりやすく親しみやすいからだけではなく、音楽の深いところに起因しているからだ、というのである。
~森田稔著「ロシア音楽の魅力―グリンカ・ムソルグスキー・チャイコフスキー」(東洋書店)P146
納得だ。
曲は、概ね第1番の形を踏襲している。
ニコライ・ルビンシテインの指摘の通り、確かに第1楽章と第2楽章は冗長だと言えなくもない。しかし、それだけチャイコフスキーの美しい音楽に浸っていられるのだと考えると、決して長過ぎるということはないとも思う。繰り返し聴くごとになぜか愛着が湧く。
そもそも第1楽章アレグロ・ブリランテ・エ・モルト・ヴィヴァーチェ冒頭の主題から何てわかりやすく魅力的なのだろう。このとっつき易さが陳腐だという印象を与えなくもないが、威風堂々たる雄渾な主題は、顔を出すたびに聴く者の魂を鼓舞することは間違いない。
それに、ヴァイオリン独奏、そしてチェロ独奏とピアノの競演となる哀愁漂う第2楽章アンダンテ・ノン・トロッポが絶品!さらに、終楽章アレグロ・コン・フオーコは、チャイコフスキーの常套的な方法で華麗に締め括られる。
単一楽章の作品として残された第3番変ホ長調は、ほぼ顧みられることのない凡作とされるが、じっくり聴いてみると、いかにもチャイコフスキーらしい音調に満ちており、これはこれで楽しく聴ける。ただし、レオンスカヤのピアノもマズアの指揮もどちらかというと冒険的というより優等生的な安心(否、凡庸?)の解釈だ。その意味では面白みに欠ける。