とても天気の良い日だった。深い静けさが行き渡っていた。晴れた静かな日の墓地の静けさ。1分後に目を開け、墓石に刻まれた言葉を読んだ。
ヴェネツィア、われらに永遠のやすらぎをもたらす者
セルジュ・ド・ディアギレフ
1872-1929
~セルゲイ・グリゴリエフ著/薄井憲二監訳/森瑠依子ほか訳「ディアギレフ・バレエ年代記1909-1929」(平凡社)P294
ヴェネツィアで客死したセルゲイ・ディアギレフの最後のバレエは、ジョージ・バランシンの振付による「放蕩息子」だった。父の慈しみ深さを、度量の大きさを主題にした「ルカ福音書」の寓話からの物語は、人間の傲慢さを揶揄し、何事も自分事として受容することの重要さを説いたものだが、セルゲイ・プロコフィエフの音楽はこれまた懐の大きい、革新的な響きと静かな愛情に溢れるものだった。
バレエの初演は、1929年5月21日、サラ・ベルナール劇場にて。
この晩、観客の真の関心は、プロコフィエフがディアギレフのために作曲した3作目のバレエとなる「放蕩息子」に集中した(他の2作は「道化師」と「鋼鉄の踊り」である)。初めて「放蕩息子」の曲を聴いたとき、私はフォーキンの振付で見られないことがとても残念に思えた。彼の才能にぴったりの音楽と感じられたからだ。もちろんバランシンの才能は疑うべくもないが、彼のアプローチはほぼ徹底して理性的であり、どんな程度であれ感情表現とは無縁だった。彼がディアギレフのもとで過ごした期間に創作したバレエは、ほとんどすべてが物語や感情を排除していた。一方、「放蕩息子」にはその両方が存在していた。プロコフィエフはすぐに、この曲の主題が必要としているのはバランシンではないと感じた。ディアギレフ自身も同じ意見だったに違いない。
~同上書P286
急逝する3ヶ月前のステージは、パリで熱狂的に受け入れられたという。
バレエ音楽「放蕩息子」からのモチーフ、スケッチなどを引用し、作曲された交響曲第4番オリジナル版は、セルゲイ・クーセヴィツキーの委嘱によるもの。(偶然にも)3人のセルゲイが三つ巴に絡んでの交響曲は、初演当時不評を買ったそうだが、静かでまた密やかな音調に、プロコフィエフの「鋼鉄の」イメージを払拭するようで実に美しい。
ワレリー・ゲルギエフはことのほかプロコフィエフの音楽を愛するのだという。
大好きなんです。オペラ、交響曲、協奏曲、映画音楽、バレエ、何をやっても飽きることがない。面白くてしょうがないし、指揮していると自分自身も変わっていく、そんな気がしてきます。どうしてこうもプロコフィエフに心惹かれるのか本当に不思議なくらいです。要は首っ丈なのです。ある人は“プロコフィエフは分からない。ノイズだ”といいますが、私は“
それじゃ、そのノイズがどんなに素晴らしいか聴かせてあげましょう”という気になるのです。
~UCCP-1118/21ライナーノーツ
ロンドンはバービカン・センターでのライヴ録音。
作曲者自身が「ノイジーでない」と自負し、愛着を持った交響曲が、ゲルギエフの渾身の、愛情溢れる指揮によって、何と熱く、何と推進力をもって奏されるのだろう。わずか20数分の短い交響曲が、実に濃密に、また音楽的に語られる様子に感極まる。
プロコフィエフは1917年のロシア革命以降、祖国を後にし、亡命した。
そして、スターリンの粛清の嵐に翻弄されていたソヴィエト連邦に1936年戻った。
それはまるで「放蕩息子」を絵に描いたような(?)帰還であり、「放蕩息子」と双生児のような交響曲を愛したのも、いずれ将来自分自身が同じような運命に遭うことがわかっていたからかどうなのか、実に興味深いところだ。
明朗なる、民族的な第2楽章アンダンテ・トランクィロの弦が泣く。