ギューデン ヘイニス ウール レイフュス マルケヴィチ指揮ラムルー管 ベートーヴェン 交響曲第9番「合唱」(1961.1録音)

ベートーヴェンが歓喜を頌めようと企てたのは、こんな悲しみの淵の底からである。
それは彼の全生涯のもくろみであった。まだボンにいた1793年からすでにそれを考えていた。生涯を通じて彼は歓喜を歌おうと望んでいた。そしてそれを自分の大きい作品の一つを飾る冠にしようと望んだ。生涯を通じて彼は頌歌の正確な形式と、頌歌に正しい場所を与える作品とを見いだそうとして考えあぐねた。『第九交響曲』を作ったときでさえも、究極の決定を与えかねて「歓喜への頌歌」は、これを第十か第十一の交響曲の中へ置き換えようという気持を、最後の決意の瞬間まで持ちつづけていた。われわれは、『第九』が世に普通呼ばれるごとく『合唱を伴える交響曲』と題されてはおらず、『シルラーの詩「歓喜への頌歌」による合唱を終曲とせる交響曲』と題されていることをよく注目しなければならない。どうかすると、この交響曲はまったく別の終曲を持つようになったのかも知れなかった。なぜなら、1823年の7月にはまだベートーヴェンは、この作品に器楽だけの終曲を与えるつもりだったのである。そのために考えていた主題はその後作品第百三十二番の弦楽四重奏曲の中へ転用せられた。1824年5月の『第九』演奏の後でさえも(ツェルニーとゾンライトナーの説によると)ベートーヴェンは終曲の作りかえの意図を全部的には抛棄していなかったという。

ロマン・ロラン著/片山敏彦訳「ベートーヴェンの生涯」(岩波文庫)P57-58

どこまで真実かはわからぬが、ロランの見解は概ねその通りなのだろうと思う。
確かに僕は昔からこの終楽章に違和感があった。いや、今でもそのことは変わらない。世間一般ではもはやこの合唱こそが「第九」の代名詞になっているが、前3楽章に比して一気に格が下がるように思えてならないのである。
ロランが言うように、当初の予定通り第10番か第11番に「合唱」を充てていたら、世界は、音楽史は随分変わっただろうと想像する。まして、ベートーヴェンの寿命から考えて、合唱付きの交響曲が創造され得なかったのだとすると、ベルリオーズもなければワーグナーもないのである。

その意味では、今となっては「合唱付き」という、どこか能天気な終楽章を持つからこそ「第九」であり、多くの人々を感化する力があったのだ。

今年はイーゴリ・マルケヴィチが急逝して40年の年。
彼が亡くなったその頃、僕は東京に出てきた。あっという間の40年だった。
ベラ・バルトークをして作曲能力に関して「驚異的」と言わしめた天才音楽家のあまりの突然の死に当時世間は泣いた。同様に僕も落ち込んだ。

・ベートーヴェン:交響曲第9番ニ短調作品125「合唱」
ヒルデ・ギューデン(ソプラノ)
アーフェ・ヘイニス(アルト)
フリッツ・ウール(テノール)
ハインツ・レーフュス(バリトン)
カールスルーエ・オラトリオ合唱団(合唱指揮:エーリヒ・ヴェルナー)
イーゴリ・マルケヴィチ指揮ラムルー管弦楽団(1961.1録音)

そのとき僕はマルケヴィチの「第九」を聴いていた。
音楽についての知見も経験も浅薄だった当時の僕が、この名演奏をどれだけ理解できていたかはわからない。久しぶりに聴いたマルケヴィチの「第九」は快活で、推進力に富み、とても華やかだった。
若き日からの願望がようやく形になったとき、ベートーヴェンは何を思ったか。
もう少し後でも良かろうと確かに迷いや躊躇はあったのかもしれない。しかし、これで良かったのである。レーフュスのレチタティーヴォがとても明るく聴こえる。ここには希望がある。そしてまた夢がある。

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