あらためてよくできた曲だと思う。
表面が磨かれないままの、赤裸々な野人の「新世界」とでも表現しようか。
何というのか、この不器用な加減が堪らない。
久しぶりに朝比奈隆の「新世界」交響曲を聴いた。
中庸のテンポで、しかし、相変わらず重厚に語りかけるドヴォルザークのボヘミア魂。遠くアメリカ合衆国から故郷ボヘミアを想う音調は、有名な第2楽章ラルゴの旋律にその頂点を置くが、朝比奈の想いのこもった指揮も、クライマックスの様相を示す。
御大は慣れ親しんだ作品であるにもかかわらず、一から研究するかのように丁寧に歌い、その中で十分に感じているように思われる。
前にもいいましたが、演奏するときに、作品に対したときに、いわゆる演奏家は作曲家の作品を、自分を顕示し、あるいは、自己の存在を主張するような手段に使ってはならない。これは私の発明したことばではなく、後輩のある物理学の教授と話している時彼が、
「先輩のいわれることは、作品を自己主張の手段にしてはならないということですね」
と、概念を整理していってくれましたので覚えているのです。で、その後折に触れてその言葉を思い出して、演奏家というものはそれによって初めて忠実な仲介者として、音楽という芸術行為の中の一環に堂々と参加できるんだ。そこには邪念を含まないんだと・・・。
朝比奈隆×小石忠男対談「クラシック音楽の昨日と明日」
~「朝比奈隆のすべて 指揮生活60年の軌跡」(芸術現代社)P208-209
朝比奈御大は、いわば悟りを目指して舞台に立ち続けた。
ただ、晩年の「新世界」を聴いてみても、どうしても人間味(すなわち邪念)を拭い去ることはできていない。しかし、それで良いのだと僕は思う。
・ドヴォルザーク:交響曲第9番ホ短調作品95「新世界より」
朝比奈隆指揮大阪フィルハーモニー交響楽団(1997.1.7Live)
フェスティバルホールでの新年恒例の「新世界」のゴツゴツした美しさ。
興味深いのは、終楽章アレグロ・コン・フオーコの、静かに窺うように開始される冒頭の意味深さ。そして、ゆったりとしたテンポで、終わりを向かるのを惜しむかのように最後まで丁寧に歌われる音楽の新鮮さ。特にコーダで、第1楽章第1主題が回帰する瞬間の爆発力と生命力に心ときめき、再びテンポを落として語られるボヘミアの詩情に感動する。
終演後の聴衆の歓喜の喝采が相変わらず尊敬の念に溢れ素晴らしい。