
雅びで薫香豊かな音楽に酔い痴れる。
最晩年のヨーゼフ・クリップスが打ちたてた金字塔、モーツァルト交響曲選集。
「私は恐れるのだが、天上の神が喜んできくのは、バッハでなくて、たぶんモーツァルトの音楽だろう」といったのは、神学者のカール・バルトだった。心が乾燥している時はモーツァルトへの手がかりはない。音は空しく耳の傍を駆けていってしまう。しかし、彼をきく用意が、私の知らない何かの機微によって心のどこかで整っている時は、こんなに素晴らしい音楽はない。その《心の耳》が、いつどこでどういうふうに、開かれたり、閉ざされたりするのか。それは、私たち自身にも、よくわからないことだ。
~「吉田秀和全集1 モーツァルト・ベートーヴェン」(白水社)P137
吉田秀和さんの「モーツァルトへの旅」という小論の冒頭は、とてもよくできている。
「よくできている」とは上から目線甚だしいが、これをもってモーツァルトへの扉が開かれるのだろうから、名文と言って良いだろう。そう、それは単なる扉の開閉の問題ではなく、心の器の問題なのかもしれない。
若い頃はモーツァルトの音楽をよく聴いた。
しばらく色々な音楽を聴くにつけモーツァルトから離れた時期があった。
そして、ある程度の年齢になって、もう一度モーツァルトに戻ってきた。たくさんのモーツァルトを聴いてきたけれど、今最も心に刺さるのが、ヨーゼフ・クリップスのモーツァルトだ。
楽譜通りに丁寧に反復を行うも、何とも自然体で嫌味に陥らない素敵な第40番ト短調に感動する。遅過ぎず、速過ぎず、理想的なテンポで奏でられるモーツァルトの粋。そして、暗澹たる表情を、これでもかというくらいリアルに見せる「プラハ」交響曲の美しさ(第1楽章序奏アダージョの幽玄!!)。
上記の論は、1969年の初出だけれど、その論の神髄は50年以上を経た2023年にも通用するものだ。そしてまた、吉田さんは1972年から73年にかけて「ステレオ」で連載された「モーツァルトの演奏をめぐって」で次のように書いている。
交響曲では、ヴァルターの指揮が、結局は、いちばんよいということになるのだろうか? わら氏はまだ、自分の考えをはっきりまとめるところまできていない。音楽的実質—というのも変な言い方だが—でいえば、ここでも、ジョージ・セルが1970年の春大阪でクリーヴランド・オーケストラを指揮した時きいた『ト短調交響曲第40番』が最高だったと、今でも信じているけれども。レコードできくと、もちろん、素晴らしいのだが、何かがちがう。
~同上書P277
ブルーノ・ワルターももちろん素晴らしい。ただし、また違った意味でクリップスも素晴らしい(吉田さんはこの演奏をどう思っていたのだろう)。ちなみに、セルの伝説の来日公演での第40番は実演ならではだったことがよくわかる。