エマーソン弦楽四重奏団 J.S.バッハ フーガの技法BWV1080(2003.1&2録音)

偉大さの宿命。—どの偉大な現象のあとにも変種が続く、とくに芸術の領域においてはそうである。偉大なものの典型が比較的虚栄心の強い天性を刺激して外面的に模倣しようとか凌駕しようとかさせる、そのうえあらゆる偉大な天分は、多くの弱いほうの力や芽を押しつぶして、自分の周囲でいわば自然を荒廃させるような宿命的な性質をもっている。芸術の発展においてもっとも幸福な場合とは、幾人かの天才がたがいに制限しあう場合である、こういう闘いのさいは、通常弱い繊細なほうの天性にも空気や日光が恵まれるものである。
池尾健一訳「ニーチェ全集5 人間的、あまりに人間的I」(ちくま学芸文庫)P190

「人間的、あまりに人間的」第4章「芸術家や著作家の魂から」にはそうある。
バッハからベートーヴェン、そしてワーグナーに至るドイツ芸術の金線に対して、ニーチェは真っ向から非を唱えるのかどうなのか。突出した天才の出現は幸福を壊すかのように彼は言うが、しかしおそらくそこには単なる反骨精神ではない劣等感があり、自身を受け入れられなかった失望感が見て取れる。
フリードリヒ・ニーチェこそがか弱い、繊細な芸術家(哲学者)だと言えまいか。

昨日、二人でショーペンハウアーを読んでいたときのこと、リヒャルトがこう言った。「それがバッハのフーガだ。猛烈な勢いで突き進みながら結晶し、持続低音の上で凝固する」。それからベートーヴェンとモーツァルトについて、こう語った。「ことフーガに関してはバッハより影が薄いといわれる二人だが、彼らはこの形式と戯れた。自分たちもフーガを操れることを示したかったからだ。しかし、バッハはフーガの精神を示した。フーガよりほかに書きようがなかったのだ」。
《第九交響曲》の手書きの楽譜が届く。はてしない喜び。ショットがとてもよい状態で保管しておいてくれた手稿は、優に40年以上昔のもの。それが今、わたしの手もとにある。リヒャルトは冗談めかして、「これできみは、わが人生のすべてを身辺に集めてくれたことになる。きみがいなければ、わたしは自分の人生について何も知らなかっただろう」と言った。

(1872年1月15日月曜日)
三光長治・池上純一・池上弘子訳「コジマの日記3」(東海大学出版会)P92

ワーグナーの精神世界の柱にはベートーヴェンがあったが、そのさらに奥にはバッハがあったと言っても良いだろう。バッハのフーガは一筋縄ではいかない。
僕の座右の晩の1枚をひもとく。

・ヨハン・セバスティアン・バッハ:フーガの技法BWV1080(2003.1&2録音)
エマーソン弦楽四重奏団
ユージン・ドラッカー(ヴァイオリン)
フィリップ・セッツァー(ヴァイオリン)
ローレンス・ダットン(ヴィオラ)
デイヴィッド・フィンケル(チェロ)

バッハにとってフーガは遊びではなかった。
楽器指定のない譜面には数多の謎が残るが、そこには無限の可能性、拡がる精神世界の解放があった。エマーソン弦楽四重奏団による弦楽四重奏版の「フーガの技法」を聴いて僕は膝を打った。
人類至高のこの作品が、天才たちが互いに制限しあう中で生み出されたとは到底僕には思えない。その意味でニーチェの言葉には無理がある。それよりもワーグナーの見解の方に分があるように僕は思うのだ。

「フーガの技法」に身を委ね給え、そして、心を解放し給え。ここにあらためてバッハの天才を思う。
過去記事/2013年10月18日

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