ヴィルヘルム・フルトヴェングラー最後の録音。
体力の衰えのせいなのか、その音楽は枯淡の境地を示し、リヒャルト・ワーグナー独特の毒が随分スポイルされ、老練の、実に客観的な、静謐な音楽が終始僕たちの心に響く。おそらく巨匠の最後の録音という刷り込みが影響していることもあろう。
妻宛の最後の手紙には次のようにある。
今日は最後の日。
地獄へいたる道がよき決心で舗装されているという諺がもしほんとうなら、今こそぼくは「地獄への道」をまっしぐらに歩いている。でも、ぼくはまだ天国を信じているし、きみの来るのが愉しみだ、エリーザベト。—昨日、耳鼻科の医師から聞いたが、ぼくの病気は血行障害以外のなにものでもなく、内科医に見てもらう必要があるのだそうだ。補聴器は、ぼくのような(とは音楽家の)場合、ぜんぜん役に立たぬという。結局、レーヴェンシュタインさんのお見立てと同じわけだ。・・・
(1954年9月25日付、妻エリーザベト・フルトヴェングラー宛)
~フランク・ティース編/仙北谷晃一訳「フルトヴェングラーの手紙」(白水社)P306
病気で気弱になっていたフルトヴェングラーにとってエリーザベトは心の支えだった。この3日後から始まるウィーンでの最後の録音セッションに向け、指揮者は妻への愛を再確認し、ワーグナーの傑作に向き合おうとしたのだろう。
ちなみに、この手紙の編者の注釈に目を向けると真実が手に取るように見える。
オットー・フォン・レーヴェンシュタイン博士は、バーデン=バーデン近郊のエーベルシュタインブルク・サナトリウムの主任医師。主観的には、フルトヴェングラーの聴力はこの診断とはぜんぜん違っていた。1954年の1年間に彼は、聴力の衰えた徴候をいささかも感じさせずに、ベルリン・フィル、ウィーン・フィル、その他内外の十におよぶオーケストラと、オペラを10回、普通の演奏会を55回も指揮したのである。自作の交響曲を指揮したときは—たとえば9月のように—ひどく興奮して、かなり難聴に陥ったこともあるのはあった。しかし1週間の後には、それぞれの楽器が表現する音価に即して精妙な感覚をはたらかせつつ、『ワルキューレ』のレコード録音を指揮した。
~同上書P306-307
人の命は儚いものだ。直前まで元気に仕事をしていた人が突如いなくなるという事実。
フルトヴェングラー逝去後にレコード大賞を受けることになる楽劇「ワルキューレ」のレコードは、今となっては指折りとはいえないまでも、最晩年のフルトヴェングラーの思想や心構えが明確に投影され、興味深い(うねりに欠け、デモーニッシュでない、実に抹香臭い(?)生気に欠けた(?)ワーグナー。しかし、それだからこその長所もあるが)。
この後フルトヴェングラーは「指環」4部作のすべてをセッション録音する予定だったが、結局「ワルキューレ」のみに終わったことが残念でならない(痛恨の極み!)。久しぶりに全曲を聴いた。
第1幕こそ愛の喜び、官能の表現が後退しているが、ジークフリートやブリュンヒルデの後の悲劇(?)を考えると的を射た表現だということも可能だ。リザネクとズートハウスによる二重唱が哀しくも美しい。
そして、幕が進むにつれ、音楽は俄然活気を帯びる。第2幕は前奏曲からフルトヴェングラーならではの激しさを湛え、聴く者の心をとらえる。この録音における白眉は間違いなくヴォータンとブリュンヒルデの心理の葛藤、そしてフリッカの正論的企みを描く第2幕にあろう(文字通りこの世のしくみであり、また愚かな人間社会の体現だ)。第2場冒頭はこうだ。
ブリュンヒルデ
恐れていたように諍いは悪い結果に終わり、
フリッカはお父様の運命を嘲ったのね!
お父様、あなたの子供は何を聞くのでしょう?
あなたは元気がなく悲しそうですね。
ヴォータン(腕をだらりと下げ、頭を後ろにそらす)
わしは自分の罠にはまってしまった、
わしは最も自由でない男だ。
ブリュンヒルデ
こんなお父様は見たことありません。
何があなたの心を苦しめているのですか?
(ここからヴォータンの表情がみるみる険しくなり、態度も荒々しくなり、ついに爆発する)
ヴォータン
おお、何たる恥辱! おお、恥ずべき心痛!
神々の危機! 神々の危機だ!
終わりなき憤怒! 永遠の悲しみ!
わしは全ての者の中で最もみじめな男だ。
~井形ちづる訳「ヴァーグナー オペラ・楽劇全作品対訳集2―《妖精》から《パルジファル》まで―」(水曜社)P74-75
神々とはいえ迷えるものに共通するプライドたるや。
悟りに至らぬ神性は凡庸なるものと等しい。あまりに人間臭いフルトヴェングラーの演奏が、輪をかけてヴォータンを貶める。それがまたこの録音の価値を(ある意味)上げているのだ。ちなみに、第3幕最終場のヴォータンの告別と魔の炎の音楽は、少々集中力に欠けるものだと僕はずっと思っていた。
しかし、今は違う。
風前の灯の如くの生の末期の諦念をヴォータンのそれとなぞらえて(?)、指揮者本人の意志とは別の音となって再生される奇蹟と言えば良いのかどうか、これが巨匠最後の録音になることを知っている後世の僕たちには、とっておきの、屈指の名演奏として眼前に鳴り響いているのだと表現しても言い過ぎではない(もちろんフランツの名唱に拠るところも大きいが、何だか悲しみを喚起する真に迫る演奏だ)。
※2013年7月10日:過去記事