高橋悠治 武満徹 ピアニストのためのコロナ(1972.11録音)

私が特に記したいのは《Corona for Pianist(s)》(1962)についてである。この作品はこのアルバムではCorona-London Versionと題されたが、それはロジャー・ウッドワードの創造的な演奏にこの作品が負うところが多かったためである。Coronaは数枚の色彩紙に書かれた多くの記号とインストラクションから成っていて、それらの紙はまた自由に組合せて演奏できるようになっている。
ここではピアノ2台とオルガンそしてハープシコードがウッドワードによって演奏されマルティプルにレコーディングされている。

「武満徹著作集5」(新潮社)P451-452

武満自身が認めた、アルバムの楽曲解説にはそうある。
62年も前に作曲された作品ゆえ、件の禍とはもちろん無関係だ。おそらく組合せは無数にあるのだろう。かのウィルスが、人間の抵抗を余所に、変種を繰り返し、襲ってきた構図と何だか似ているように思われなくもない。それに、演奏する楽器や編成すら自由選択の余地があるのだから、武満徹は予言者だったのかどうなのか。

僕は高橋悠治のピアノを聴いた(ミニアチュール第3集より)。
「ピアニストのためのコロナ」は、23分超の大作だ。
高橋悠治は武満の音楽を、実に丁寧に、思いの丈を込めて紡ぐ。しかも彼は4台のピアノを駆使し、多重録音しているのだ。

・武満徹:ピアニストのためのコロナ(1962)
高橋悠治(ピアノ)(1972.11録音)

武満の音楽にある絶妙な「間」を高橋はことのほかうまく再生する。
果たしてこれは前衛なのかどうなのか、もちろん単なる遊びではない、作曲者の真剣勝負であり、またピアニストの大いなる挑戦でもある。

ひとつの音楽作品に適切なタイトルを附すために、私は、音と言葉との間の往復運動を繰返します。私が音楽につけるタイトルには、変ったものが多く、ある批評家は、それを単なる詩的ムードにすぎないとして批判していますが、私がタイトルを決定する時には、単に作品の気分を暗示するというのではなく、そこには記号的な意味や、音楽の構造全体と関わる問題があるのです。私の内面に生じる感動や、多くの葛藤を言葉によって次第にひとつの音楽的プランに置き換えていきます。
「夢と数」
~同上書P15-16

1984年4月の講演からの上記の言葉は、「鳥は星形の庭に降りる」を題材にして語られたものだが、その20年以上前に作曲された「コロナ」についても、おそらく武満の夢や数が絡んでいるのではないかと思えるほど音楽は神聖であり、また幻想的だ。

武満徹の音楽は聖俗相まみえる。もちろん本人にそんな意志はないと思う。けれども、何だかその中に僕は「信仰」という文字をいつも思い出す。決して深刻ではない、だからといって決して軽々しいものでもない、人が生きる上でとても大切な心のあり方を、僕は彼の音楽にいつも感じるのだ。たぶんそれは、「間」や「魔」に垣間見られるのだろう。
高橋悠治の天才。僕はピエール・アンリの「旅」を思った(実際にはアンリの方が後で、アンリこそが武満の影響を受けたのではないかとさえ思える)。


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