トローベル メルヒオール トスカニーニ指揮NBC響 ワーグナー 楽劇「ワルキューレ」第1幕第3場(1941.2.22録音)ほか

観客は舞台上のみごとな演技に対して、熱くわき立つ思いを拍手でじかに伝える。この自然法則にかなった交流のうちにこそ、ことあるごとに創造的な精神をとりこにする一方で、今日の劇場にはびこる魑魅魍魎を白日のもとに解き放った魔物が棲みついている。悪意の刺をひそませて、皮肉たっぷりに「真理とは何か」と問いかけてくる者があるとすれば、その資格を有するのはこのデーモンである。「すべてが人の目をあざむくことを当て込んでいる劇場にあって、いったい何が真理だというのか。こうした虚構を利用しているのは客の受けをねらう下心か、それとも至高の天才がみずからの自己放下のために虚構を恣にしているのか、いったい誰に見きわめがつくだろう」と。
「俳優と歌手について」(三光長治・池上純一訳)(1872)
ワーグナー/三光長治監訳/池上純一・松原良輔・山崎太郎訳「ベートーヴェン」(法政大学出版局)P456

劇場の有り様から、舞台綜合芸術の本質について論じるワーグナーの天才。この時期、バイロイト祝祭劇場の建設を前にして、諸々の課題を突き付けられながらも、実にワーグナーらしい、宗教に代わる「真の芸術」とは何かの輪郭が(多少の空論感は横に置くとしても)具に語られる点が興味深い。決してコマーシャルではない作品を、凡客にすら納得させる術は、舞台人の「あふれんばかりの愛に包まれた陶酔」だと結論するワーグナーの慧眼に拍手を送りたい。

しかしながら、そのことは言葉にするのは容易い。舞台人、否、後年どれほどの音楽家がワーグナーの理想を体現すべく苦心したことか。

「愛に包まれた陶酔」とはおそらく最も遠いところにあるだろうトスカニーニの理性は、ことワーグナー音楽にかけては実に本領発揮たるパトスがめくるめく発露する官能美。

ワーグナー:
・楽劇「ワルキューレ」第1幕第3場(1941.2.22録音)
ヘレン・トローベル(ソプラノ)
ラウリッツ・メルヒオール(テノール)
・楽劇「ワルキューレ」第3幕「ワルキューレの騎行」(1952.1.3録音)
・ジークフリート牧歌(1952.7.29録音)
・楽劇「トリスタンとイゾルデ」前奏曲と愛の死(1952.1.7録音)
アルトゥーロ・トスカニーニ指揮NBC交響楽団

中でも「トリスタンとイゾルデ」から前奏曲の愛の死の素晴らしさ。NBC交響楽団との最も有意義な、充実したシーズンの演奏は、僕たちの心、魂を刺激する。こんなにも分厚く、そして直接的でありながら曲線的なエロスを示す音楽があろうか。

トスカニーニは、51/52年シーズン、12回の放送(うち4回はテレビでも中継された)で指揮し、その合間にレコーディングを行い、85歳になったとは思えない仕事ぶりを示した。まさに彼は完全復活したようであった。
山田治生著「トスカニーニ―大指揮者の生涯とその時代」(アルファベータ)P267

そしてまた、オーケストラとのトラブル続きであった40/41年シーズンに録音された「ワルキューレ」第1幕抜粋もトローベルとメルヒオールの名唱を盾にして実に音楽的でウェットな演奏が繰り広げられていることが興味深い(できるなら第1幕全曲を聴いてみたいところ)。

結局、NBC響はトスカニーニのために用意されたオーケストラであったが、トスカニーニのオーケストラではなかった。ニューヨーク・フィルやボストン響のような地元に根差した運営理事会を持つ通常のオーケストラでもなかった。NBCという一民間企業のオーケストラであり、NBCの別の番組の仕事も入っていたのだ。ある意味、NBC響は親会社であるRCAという大企業のアクセサリーに過ぎなかったともいえる。トスカニーニにしても、NBC響の音楽監督ではなく、人事権もなく、組織のなかで確固としたポジションを持っているわけでもなかった。
~同上書P234

冷静に振り返ってみて、150年前にワーグナーが苦慮した舞台芸術の問題がこういうところにもつながっているように思える。資本主義という魔物(デーモン)を相手に、真偽の見極めは実に難しい。心眼(慧眼)の活用、達用の必要性をワーグナーはやはり知っていたのだろうか。

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