考える男はゆっくり歩いて行きながら、この考えにとらえられて立ちどまった。たちまちこの考えから別な考えが、新しい考えが飛び出した。それはこういうのだった。「自分が自分について何も知らないこと、シッダールタが自分にとって終始他人であり未知であったのは、一つの原因、ただ一つの原因から来ている。つまり、自分は自分に対して不参を抱いていた。自分から逃げていた! ということから来ている。真我を自分は求めた。梵を自分は求めた。自我の未知な奥底にあらゆる殻の核心を、真我を、生命を、神性を、究極なものを見いだすために、自我をこまかく切り刻み、殻をばらばらに、はごうと欲した。しかしそのため自分自身は失われてしまった」
~ヘルマン・ヘッセ著/高橋健二訳「シッダールタ」(新潮文庫)P53-54
まるでベートーヴェンがいわゆる「ハイリゲンシュタットの遺書」を書くことによってついに悟りの一端を得たのと同じようではないか、そんなことを僕は思った。
2つの楽器が、丁々発止の掛け合いを挟みながら見事に溶け合う様子にベートーヴェンの革新を思った。
アルテュール・グリュミオーとクララ・ハスキル。ハスキルが亡くなった後、グリュミオーは相当落ち込んだといわれる。彼にとってハスキルは単なる伴奏者ではなく、音楽を創造する上で唯一無二の、永遠のパートナーだった。その意味で、ベートーヴェンのソナタ群を奏するときの2人の協働は最高にして抜群のものだった。
ベートーヴェンの「春」。何て良い曲なのだろう。
これまで実演含め幾度も耳にしているはずなのに、何だか初めて触れたかのような錯覚に陥った。第1楽章アレグロの有名な主題がヴァイオリンで奏され、その後ピアノに引き継がれる瞬間の言葉にならない感動よ。グリュミオーが感じているのが手に取るようにわかる。そして、ハスキルがその感動を包み込むように受け止め、感化され、弾けるように喜びを溢れさせているのがわかる。
確かに耳疾の悪化を辿りながらもいまだ希望を捨てていないベートーヴェンの光輝。
そして、第2楽章アダージョ・モルト・エスプレッシーヴォは、虚ろな表情の中に明確な意志と希望を感じさせる名演奏。素晴らしいと思った。
アムステルダムでの録音はモノーラル。
古い録音ながら音楽は極めて鮮明で、心を打つ。
自分から逃げてはならない。