
リヒャルト・ワーグナー初期の論文「芸術と革命」には次のようにある。
そもそも偽善こそ、現代にいたるキリスト教的な全世紀の顕著な特徴であり、本来の相貌である。しかもこの悪徳は、人類がキリスト教に屈することなく、内奥から湧き出す無尽の泉から新たな活力を回復し、真の課題の解決に向かって成熟するにつれて、ますます露骨かつ破廉恥に姿を現わすのであった。自然はあくまでも力強く、根絶やしにされることなく絶えず新たな生命を産み続け、およそ考えられうるいかなる力をもってしても、その生殖能力を弱めることはできない。つまり、ローマ世界の衰弱した血管に、溌剌としたゲルマン諸国民の健康な血液が注ぎ込まれたのである。キリスト教を受容したにもかかわらず、世界の新たな支配者の本領である強烈な活動本能と果敢な企てに向かう意欲や、抑えようのない自信は衰えを知らなかった。だが、中世の歴史を通じて際立つ特徴として私たちの目を捉えるのが、もっぱらローマ教会の専制主義に対する世俗権力の闘争であるように、この新たな世界が自らを芸術として表現しようとした場合も、その表現はつねにキリスト教精神に対する対立と闘争というかたちでしか達成されなかった。つまりキリスト教的ヨーロッパ世界の芸術は、ギリシア世界の芸術のような完璧に調和した世界の統一性の表現とはなりえなかったのだが、その理由はまさに、キリスト教的ヨーロッパ世界が、深奥において、治癒も宥和も不可能なほど、良心と生命衝動、空想と現実とに引き裂かれていたことにあったのである。
「芸術と革命」(1849)
~ワーグナー著/三光長治訳「友人たちへの伝言」(法政大学出版局)P13
最後のフレーズにこそ真実があり、その分断を埋めようと使命を以って芸術活動に身も心も費やしたのがワーグナーの生涯だったのだと思う。ワーグナーは宗教に代わる真の宗教を舞台綜合芸術に求め、最晩年、ついに「再生論」と舞台神聖祭典劇をもってその入口に立った(あくまで入口に立ったに過ぎない)。確かに真我と仮我、そして心と身体が引き裂かれてしまったのが、特に19世紀以降のヨーロッパ社会であり、その影響はおそらく明治維新以降の大日本帝国にも波及しているだろう。
文字通り神聖なる「パルジファル」。
1962年のバイロイト音楽祭におけるハンス・クナッパーツブッシュ。
時間は永久であり、また空間はどこまでも広い。
久しぶりに聴いたクナッパーツブッシュ畢生のライヴとなる「パルジファル」には、永遠の時間が刻まれている。これほど普遍性をもつ作品は台本や音楽はもとより、作曲者自身の意志の反映に由るところが大きいのだと思う。第1幕の前奏曲からただならぬ迫真と静謐さに溢れるが、やはり白眉は第3幕だろう。
自らを懺悔し、慈しみを発せんとする救済者パルジファルの苦悩。
パルジファル
それは私だ、このような不幸を招いたのは!
ああ! 何という罪過、悪行、罪が
この無知な男の頭を以前から汚していることか!
どんな懺悔も償いも
私をこの無知蒙昧から解放してくれない。
私は救済者に選ばれはしたが、
道なき荒野で迷い続けている。
使命を果たすべき最後の道も消えてしまった!
~井形ちづる訳「ヴァーグナー オペラ・楽劇全作品対訳集2―《妖精》から《パルジファル》まで―」(水曜社)P331
しかし、その前にグルネマンツはすでに保証していることを僕たちは忘れてはならない。
グルネマンツ
おお神のお恵み!この上なき救い!
おお奇跡!神聖で崇高な奇跡だ!
(いくらか自制した後、パルジファルに)
おお貴殿よ!もし呪いがゆえに
貴殿が道を歩むことができなかったとしたら、
その呪いはもうなくなりました。
貴殿殿は聖杯の地におられます。
聖杯の騎士たちは救済を待ち望んでいます。
貴殿がもたらす救済が必要なのです!
~同上書P330
救済者パルジファルに救済が与えられるクライマックスの奇蹟に魂は喜び、心は鎮まる。
これまでないとされていた幻の1955年バイロイトの「パルジファル」がまもなくリリースされる。楽しみだ。