
ワーグナーが七月革命に呪縛されたのは、民衆による「下からの革命」のヴィジョンを、そこに垣間見たからだろう。たとえば『妖精』(1834)に続く若書きオペラ『恋はご法度』(1836)は、民衆の「笑い」という浄化のエネルギーによって無血革命を成就してしまう喜劇的逆転劇であるが、ここには七月革命のヴィジョンが濃厚に反映している。『恋はご法度』の原作はシェイクスピアの『尺には尺を』である。これをワーグナーは「『若きヨーロッパ』のセンスに合わせて」翻案し、「自由で開放的な官能性が、まったくそれ自体によってピューリタン的偽善に勝利」するように仕上げたのである。
藤野一夫「フォイエルバッハ時代のワーグナーの思想」
~ワーグナー著/三光長治訳「友人たちへの伝言」(法政大学出版局)P408
一見この論は正統のように思うが、しかしワーグナーの本性はまったく逆を志向していたのではなかろうかと僕は考える。約半世紀後の舞台神聖祭典劇に見る思想の断片は、むしろ自由で開放的な官能性を真の芸術(真の愛、慈悲)によって駆逐するよう仕上げられたものであり、その萌芽を「恋はご法度(恋愛禁制)」に僕は見るからである。物語の筋だけを追えば確かに藤野さんの論説は是だ。ただし、以後のワーグナーの志向をなぞり、その発展過程を具に想像するにつけ、オペラの根底に流れる真意は(作曲家本人は無意識だろうが)やはり人間の本性たる慈悲心の発露を希求してのものだったように思う。
歌劇「恋愛禁制」は後のワーグナーの舞台作品とはほど遠いものだが、随所にワーグナーらしい官能を醸す音響を垣間見ることができる。興味深いのは、やはり当時から通底するワーグナーの思想そのものの断片が読み取れることだ。
それにしてもカスタネットやタンブリンが登場する序曲の喧騒(?)に唖然とする。
人間の本能ともいうべき欲をご法度とするお触れが出る前の、いわば酒池肉林、謝肉祭の愉悦を表す音楽だそうだが、どう聴いても(後年の)ワーグナー的色合いはまだまだ生まれ得ず、あまりの軽快さに心が躍るどころか少々醒めてしまうというのが本音。それでも物語の進行とともにワーグナー色が徐々に覚醒してくるのだから天才というのは面白い。二十歳を超えたばかりのワーグナーといえど、作ったのはワーグナーその人なのだということが見事にわかる。
ただし、真に理解するには他の初期オペラも同様実演に触れる機会を持たねばならないだろう。
集まれ、こっちだ、みんな、仮面をつけて、
胸の底から歓呼の声をあげよう!
我らのカーニバルを最高に祝おう、
その歓びは決して終わらせはしない!
~井形ちづる訳「ヴァーグナー オペラ・楽劇全作品対訳集1―《妖精》から《パルジファル》まで―」(水曜社)P100
続く行進曲とあわせ最後の大団円の幸福感!
初演は1836年3月29日、マクデブルク劇場にて作曲者自身の指揮による。