
1809年のフランス軍による短期間の砲撃の際にベートーヴェンは非常に不安がった。彼はほとんどの時を弟カスパールのところの地下室で過ごし、そこでは頭を枕で覆っていた、そう、大砲の音が耳に入らないようにである。
(リースの「覚書」P121)
~大崎滋生著「ベートーヴェン像再構築2」(春秋社)P735
ウィーン占領により多くの貴族が疎開する中、ベートーヴェンはルドルフ大公へのレッスン用にいくつもの作品を書き上げる。中に、モーツァルトのニ短調協奏曲K.466のカデンツァがある。これはモーツァルトとベートーヴェンの合作といっても良い稀代の名カデンツァである。
短調のモーツァルトにある神々しさと重み。(未完の)幻想曲ニ短調K.397(385g)は、(とってつけたような)明朗なコーダによって救われている。このアンバランスさこそが、大調和の証なのだ。そして、もう一つの幻想曲ハ短調K.475には、ベートーヴェンの木魂が聞こえる。ここには、ハ短調交響曲の有名なモチーフである4つの音が現出し、この曲が明らかに後のベートーヴェンに影響を与えたのだということがわかる。
森林浴というのか、鬱蒼とした森の中で佇むエレーヌに差す一条の光は、モーツァルトの光輝であり、またベートーヴェンの聖なる力であるように思う。
「メッセンジャー」と題する、エレーヌ・グリモーによるモーツァルトとヴァレンティン・シルヴェストロフの作品集を聴いた。このアルバムも、時間の経過とともに一層心に沁みる。
エレーヌの意図はシルヴェストロフにあり、彼の音楽に触発されてのモーツァルトの音楽の入念な選択なのだという。彼女の意思を反映してか、モーツァルトの無垢、そして、ベートーヴェンの歓喜を引き継ぐように、静かに奏でられるヴァレンティン・シルヴェストロフが美しい。シューベルトやワーグナーをモチーフにした2つのディアローグの聖なる官能!!(「トリスタン」の木魂が聴こえる)
ちなみに、動物を通じて、瞬間のあり方と、静寂ということについて学んできたのだとエレーヌは言う。人間は、知識を培うことで進化してきたが、同時に、知識によって自らを牢屋に閉じ込め、雁字搦めにし、退化してきたのだとも思う。
シルヴェストロフの音楽は実に静かでまた愛らしい。
ベートーヴェンは250年という記念年にして結果、沈黙した。
そこには静寂のみが残る、これぞ大いなるベートーヴェン讃歌と言えまいか。ベートーヴェンのカデンツァが素晴らしい。