モントゥー指揮北ドイツ放送響 ベルリオーズ 幻想交響曲(1964.2録音)

私は疲労と恐怖の感情を覚えながら、こう感じるのだった、かくも長いこれらすべての時間、それは一度も中断されることなく、私によって生きられ、考えられ、分泌されたもので、それが私の一生であり、私自身であったのだが、それだけではなく、私はその時間を絶えず自分につけておかねばならず、時間は私を支え、その目もくらむような頂きに鳥のようにとまった私は、自分にできるような形で時間をいっしょに移動させないかぎり自分も動くことはできないのだ、と。コンブレーの庭の鈴の音は、はるかに遠い昔のものだが、しかし私の内部にあるものでもあり、それを私が聞いた日付は、自分でも知らずに私が所有していたこの巨大な時の次元のなかで、一つの指標をなしていた、私は自分の下方をのぞきこんで—といっても、それは自分の内部であったが—目まいを覚えた。まるで私が数里におよぶ高さと、多くの歳月を持っているかのように。
マルセル・プルースト/鈴木道彦訳「失われた時を求めて13 第七篇 見出された時II」(集英社)P279

絶えることのない時間の中にある僕たちにとって時間こそ命そのものであり、時間を移動させることのできる記憶という能力こそが人間の証であるかのようにプルーストは最後に悟ったのだろう。

ピエール・モントゥー最晩年の「幻想交響曲」を聴いていて、この、どうにも枯れた表現、すなわちどろどろの情念を伴なった官能と幻想の交響曲が、実に清廉に、そして澄んで聴こえる様子に、僕は途惑った。そして、プルーストの発見同様、老指揮者も時間によって自分が支えられているということを、そして、時間をいっしょに移動させないかぎり自分も動くことはできないことを認めたのかもしれない。

しかしこの枯淡の境地にこそピエール・モントゥーしか成すことのできなかった「幻想交響曲」という成果があろう。

・ベルリオーズ:幻想交響曲作品14(1830)
 第1楽章 夢、情熱
 第2楽章 舞踏会
 第3楽章 野の情景
 第4楽章 断頭台への行進
 第5楽章 魔女の夜宴の夢
ピエール・モントゥー指揮北ドイツ放送交響楽団(1964.2.6-14録音)

リヒャルト・ワーグナーの魁ともなる傑作は、ベートーヴェン死後3年目に突如として世に現れた誇大妄想的標題交響曲。妄想的とはいえ、音楽は首尾一貫していて支離滅裂さは一切ない。
昔はもっと官能を前面に出した、濃厚な表現を僕は求めたが、モントゥーのこの録音を聴いて以来、これこそが真の「幻想」だと確信した。作曲当時27歳のベルリオーズは、自身の夢想をただ音化したのではなく、むしろ音化することによって放下し、結果、無心・無我に向かおうとしたのではなかったか、本来的にはそういう意味合いが込められていたのではないかと個人的には推測(というか妄想)する。

中でも後半、第4楽章「断頭台への行進」から終楽章「魔女の夜宴の夢」にかけての、遅めのテンポでオーケストラを鳴り切らせ、しかし決してうるさくならない演奏が好きだ(僕が生まれる1ヶ月ほど前の録音であることにまたシンパシーを覚える)。

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