ルートヴィヒ ヴンダーリヒ クレンペラー指揮フィルハーモニア&ニュー・フィルハーモニア管 マーラー 交響曲「大地の歌」(1964&66録音)

それでもクレンペラーは、自分の人生が指揮をすることだけで成り立っているわけではなく、本を読んだり、旅行をしたり、教養を身につけたりすることも必要で、それがこの病気にまた襲われたときの備えになることを知った。音楽、美術、文学、心理学、哲学のあいだに相関関係があることも、自分の偶像グスタフ・マーラーが生涯そうしてきたように、隣接する芸術や学問に心を開く必要があることも知った。マーラーは少年のころから大の読書家で、本こそ唯一の真の友だと言ったことがあるし、シェーンベルクとツェムリンスキーにこう語ったこともある。「あなたたちのところで学んでいる若い人たちには、好きなようにやらせておきなさい。でもドストエフスキーを読ませなくちゃだめです。こっちのほうが対位法より重要です!」
E・ヴァイスヴァイラー著/明石政紀訳「オットー・クレンペラー―あるユダヤ系ドイツ人の音楽家人生」(みすず書房)P69

なるほどマーラーが言わんとしたことの真意はわからないでもない。
難解でありながらその根底に流れる源をとらえたとき、人間心理の奥底の、魂にまで突き刺さる何かがドストエフスキーの小説にはある。音楽を創造するとき、ドストエフスキーが逍遥した魂のうちを知っていることが重要なのだとマーラーは言いたいのだろうと思う。そういうところから、表面的でない、音楽の深みが自ずと生まれるのだ。

果たしてオットー・クレンペラーはどうだったのか?
もちろん彼が師マーラーの上記の言葉を知らなかったはずがなかろう。それであるならばクレンペラーもドストエフスキーを愛読したはずだ。

人はだれの審判者にもなりえぬことを、特に心に留めておくがよい。なぜなら当の審判者自身が、自分も目の前に立っている者と同じく罪人であり、目の前に立っている者の罪に対してだれよりも責任があるということを自覚せぬかぎり、この地上には罪人を裁く者はありえないからだ。それを理解したうえでなら、審判者にもなりえよう。一見いかに不条理であろうと、これは真実である。なぜなら、もし自分が正しかったのであれば、目の前に立っている罪人も存在せずにすんだかもしれないからだ。目の前に立って、お前の心証で裁かれる者の罪をわが身に引き受けることができるなら、ただちにそれを引き受け、彼の代わりに自分が苦しみ、罪人は咎めずに放してやるがよい。
ドストエフスキー/原卓也訳「カラマーゾフの兄弟(中)」(新潮文庫)P146

ゾシマ長老の説教を読むにつけ、マーラーの最愛の書だった未完たる「カラマーゾフの兄弟」の深遠なる真理を、マーラーの作品にいかに投影できるかどうかが鍵なんだと思う。その意味で、クレンペラーの「大地の歌」は明確過ぎるのかもしれない。また、ヴンダーリヒのテノールも明る過ぎるようにも思われる。あるいは、ルートヴィヒのメゾもだ。

・マーラー:交響曲「大地の歌」(1908)
クリスタ・ルートヴィヒ(メゾソプラノ)
フリッツ・ヴンダーリヒ(テノール)
オットー・クレンペラー指揮フィルハーモニア管弦楽団&ニュー・フィルハーモニア管弦楽団(1964.2.19-22, 11.7&8 & 1966.7.6-9録音)

ゾシマ長老の言葉には、中庸たる精神の重要性が説かれている。
「大地の歌」は男声と女声が交互に登用されるが、その意味で相対の権化のような代物かもしれない。しかし、ここにはハンス・ベトゥゲが独訳した東洋の詩に、エキゾチックでありながら西洋音楽のイディオムを最大限に拡大拡張した音楽が付されており、その意味では見事な中庸を体現しているのだと捉えられなくもない。明るさの中にある暗さ。生きる喜びの中に垣間見る死への憧れ。生も死も暗いのだというが、それは「暗澹たること」を強調したいのではなく、同質のものだと言いたかったのだろうと僕は思う。生死の解決が未だ不可能だった時代の、生への不信と死への恐怖が表現されたクレンペラーの稀代の名録音だと言っても過言ではない(終楽章「告別」におけるルートヴィヒの抑制された絶唱(?)が美しい)。

ちなみに、同じくマーラーの弟子であったブルーノ・ワルターは「大地の歌」初演の時のことを次のように回想する。

ふたりのアメリカ人歌手チャールズ=キャヒール(シャルル=カイエ)夫人とウィリアム・ミラーによる『大地の歌』の初演は、私の生涯で最も重要な芸術的事件のひとつとして、忘れることができない。それはまず第一に、マーラーが残していった、私にとって貴重なこの作品の初演に対する責任を、深く意識していたからであり、さらには、私はいまほんとうに彼の身代わりであると感じていたからであり、最後に、私に委託された総譜がいまはじめて感動的なひびきとなり、故人の本質を痛ましいまでにより近くもたらしてくれたからである。
内垣啓一・渡辺健訳「主題と変奏―ブルーノ・ワルター回想録」(白水社)P258

ワルター晩年の「大地の歌」は、抑制の利いた、クレンペラーとはまた印象の違う名演奏だ。

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