ドナート レヴァース ハマリ アルトマイヤー ポーラ ゾーティン デ・ブルゴス指揮デュッセルドルフ響 シューマン オラトリオ「薔薇の巡礼」(1974.9録音)

四半世紀前の夏、僕はボンにあるシューマン夫妻の墓地を訪れた。
そのとき、何だかとても懐かしい感じがした。

人生は修行だといわれる。
世界も肉体も有限の中にあって、不自由さを経験し、心の器を鍛えるために僕たちは生々死々を繰り返してきたのだと。なるほどその通りだと思う。
しかしながら、今やそれは修業とはいえないのではないか。むしろ有限の世界を、泥沼の世界をいかに楽しめるか。恋をし、愛を知り、人とのつながりの喜びを体験することがどれほど意義あることか。酸いも甘いも楽しもうではないか。

ロベルト・シューマンの「薔薇の巡礼」はデュッセルドルフ時代初期の作品である。モーリッツ・ホルンの童話に触発され、ロベルトは音楽を付したが、物語の内容は、天上界の薔薇の精が、人間界の愛を体験して見たくて女王の許しを得て下界に降りてくるも、愛の喜びだけでなく苦悩をも知り、再び天上界に戻って行くという他愛のないものだ。

心の器を大きくし、魂を浄化するために、人は悲喜交々あらゆることを体験せねばならぬのだとロベルトはおそらく知っていた。

・シューマン:独唱、合唱と管弦楽のためのオラトリオ「薔薇の巡礼」作品112(1851)
ヘレン・ドナート(薔薇、ソプラノ)
カーリ・レヴァース(ソプラノ)
ユリア・ハマリ(マルテ/粉挽の妻、アルト、コントラルト)
テオ・アルトマイヤー(テノール)
ブルーノ・ポーラ(粉挽、バリトン)
ハンス・ゾーティン(葬儀屋、バス)
デュッセルドルフ州立楽友協会合唱団(合唱指揮:ハルトムート・シュミット)
ラファエル・フリューベック・デ・ブルゴス指揮デュッセルドルフ交響楽団(1974.9.8-13録音)

個人的には合唱の崇高な印象が心に響く。
例えば、第18番「ああ、愛が胸の中で芽生える素晴らしいこの時」の重厚な荘厳さが堪らない(メルヘンゆえもっと軽快で可憐な表現が理想なのだろうが、晩年のシューマンの充実と、すでに精神を害していたであろう状態と、それゆえの交霊術的透明さ(?)が獲得されており、美しい)。
そしてまた、第23曲での薔薇の絶唱(ヘレン・ドナート)が素晴らしい。

私は幸福な思いで妖精の国に帰ります。
私はこの世の幸せを味わいました。
もう、これ以上の喜びはありません。

楽しむことがどれほど大事か。
どんな体験であろうと生かすことが大切だ。

人の心というものは、本当に、読み難い。どうして、こんなにむずかしいのだろう。一人ひとりが、実に微妙に、ちがうのである。同じ言葉の響きが、その一人ひとりちがう心のなかで、別々のエコーをひきだす。「私はこういうつもりでいったんだ」といっても、もう遅い。あるいは逆に、何もたいした考えがあっていったわけでもない言葉が、ある人の耳には、予想もされなかったような「意味」を生み出し、思いもかけぬ具合に、感心されて、うろたえる。
「吉田秀和全集16 芸術随想」(白水社)P275-276

すべては有限のこの肉体あってこその不都合である。
読み難いゆえ神秘的であり、それゆえにまた人は互いに惹かれ合うのであろう。特に恋愛とは、あるいは夫婦とは対極の組合せなのだから。

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