フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィル ベートーヴェン 交響曲第3番「英雄」ほか(1952.11.30Live)

私の病気につきましては、いずれ拝眉の折にお話しいたします。とくにこの6週間ばかりは、これまでの生涯でもっとも気分のすぐれない毎日でした。今は快方に向かいつつあります。ともかくもしばらくはこちらで静養し、指揮を始めるのは11月末まで待たなくてはならないでしょう。こういう状態は一面では歓迎すべきことなのです。この機会を私自身の仕事を進めるのに利用できそうだからです。
(1952年9月11日付、クラランの皇帝荘からヨーアヒム・ベック宛)
フランク・ティース編/仙北谷晃一訳「フルトヴェングラーの手紙」(白水社)P265

1952年7月末、ザルツブルク音楽祭での「フィガロの結婚」リハーサルの最中、フルトヴェングラーは肺炎に倒れた。5ヶ月の療養の後、無事に指揮台に復帰するも、治療薬の副作用により耳疾を患い、以後の彼の芸風、造形は大幅な変化を余儀なくされた。それは、良く言えば「堂々たる造形」を、悪く言えば「(以前にはあった)感覚と官能に彩られた動的な鮮烈さをやや欠いた造形」を形成するもので、本人は自信を喪失し、2年後の他界の遠因となったともいわれている。

生きた作品は、思想や理論によって破壊されることがない。かといって、その生命が思想や理論によって守られるということもありえない。肝要なのは、火花が飛び移り、生きた音楽が生きた聴衆を見出すということである。そこでは、自己の過剰の知性による固定観念のなかに忌まわしく捕えられた現代に見られる、あの即座に準備され、いつでもすぐ仕上がる知ったかぶりなどは、まったく無視されるのである。
(1952年)
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー/芦津丈夫訳「音楽ノート」(白水社)P65

音楽はそもそも思考の中にあるものではないのだとフルトヴェングラーは説く。
それゆえに彼の音楽は、特にコンサートにおいては並々ならぬ生命力溢れるものだ。あるいは同年の言葉。

音楽は、案出されたり構築されたりしたものではなく、成長したもの、いわば直接に「自然の手」から生まれ出たものである。この点において、音楽は女性に似通っている。
(1952年)
~同上書P66

彼の生み出す音楽に恣意性はない。あくまで自然の流れに沿ったものなのである。
1952年11月のウィーン・フィルハーモニー管弦楽団定期演奏会。

・ベートーヴェン:交響曲第1番ハ長調作品21
・マーラー:さすらう若人の歌
・ベートーヴェン:交響曲第3番変ホ長調作品55「英雄」
アルフレート・ポエル(バリトン)
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1952.11.30Live)

復帰後、初のウィーンでのコンサートは、楽友協会大ホール(ムジークフェラインザール)。
ポエルをソリストに迎えてのマーラーは、フィッシャー=ディースカウのそれに比して一層熱を帯び(ポエルの独唱は知性や理性よりも感情、感性に傾くものだ)、ある意味ずっと引き込まれる。
フルトヴェングラーの復帰を聴衆は相当喜んだことだろう。その期待に応えんと熱演を繰り広げる指揮者の意志が、ベートーヴェンの交響曲に如実に反映される。わずか1週間前にEMIへの録音を終えたばかりの「英雄」交響曲は、基本の造形は微動さえしない、ほぼ同様の巨大さを示す一方で、実演ならではのパッションとエネルギーを付加した凄演である。特に第1楽章アレグロ・コン・ブリオが素晴らしく、コーダの前のめりの推進力と開放感が堪らない。

ただし、僕がより惹かれるのは、(同じくEMIへの録音直後の)交響曲第1番ハ長調。青年ベートーヴェンの渾身の革新作が、これほど動きをもって感動的に響くのは他にないのでは?

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