
こういう小品にこそ指揮者の力量が如実に顕れるのではないだろうか。
エミール・ワルトトイフェルの「スケーターズ・ワルツ」でさえ、トスカニーニが棒を振ると火を噴くように感じるのだから堪らない。
「どうぞ後生ですから、天才そのものと言っていいモネのような画家のあとで、プッサンみたいに才能もない平凡な老いぼれ画家の名前なんか出さないでくださいな。歯に衣きせずに申し上げれば、あんな男は、下らない連中のなかでも一番つまらない人だわ。だって、仕方ございませんでしょう、ああいうのを絵画と呼ぶことも、わたしにはできないくらいですもの。モネ、ドガ、マネです。そうですとも。これこそ画家というものです! でも、とても不思議ですわね」と言いながら彼女は、空中のぼんやりした一点に、何かを探るようなうっとりした視線を注いだ。そこに自分の思想を認めたのである。「でも、とても「不思議ですわね。以前はマネの方が好きでした。今でも、もちろん、マネはやっぱり大好きです。でも、マネよりモネの方が、もっと好きなような気がしますの。どうでしょう! あの大聖堂の絵ときたら!」
~マルセル・プルースト/鈴木道彦訳「失われた時を求めて7 第4篇ソドムとゴモラI」(集英社文庫)P453-454
人間の感覚やセンスは変化する。あらゆるものを体験し、享受した心身には多種多様なものが影響を及ぼすだろう。まさにクロード・モネの「ルーアン大聖堂」の連作画ときたら!

僕は青年の頃、先入観が邪魔をしてトスカニーニの音楽のありのままを受け取ることができなかった。というより受け取ることを拒否していたのである。しかし、いまでは随分僕の心も変化した。トスカニーニの芸術のすべてが美しく、心に響く。
ヨハン・シュトラウスⅡ世のワルツやポルカもトスカニーニらしい激烈な音楽に変容しているところが興味深い。さらにフランツ・フォン・スッペの喜歌劇「詩人と農夫」序曲の推進力と(相変わらずの)灼熱に感無量。それにしてもバッハのアリアに映える愉悦の表情は他には感じられないものだ(ただし、「舞踏への勧誘」は個人的にはせかせかした印象が強く、クナッパーツブッシュ並みの堂々とした演奏を好む)。
トスカニーニの音楽には喜びがある。
昔の僕にはそのことはまったく感じることができなかった。