カエターニ指揮ミラノ・ジュゼッペ・ヴェルディ響 ショスタコーヴィチ 交響曲第9番(2003.2Live)

〈それよりも、いっそこのほうがいいのじゃないか〉しばらくして、もう家へ帰ってから、ぼくは空想にふけった。空想にふけることで、生きた心の痛みを忘れたかったのだ。〈それよりいっそ、彼女がいま、永久に屈辱を胸に抱いて去って行ったことのほうが、いいのじゃないだろうか? 屈辱というのは、なんといったって浄化だ。これは、いちばん痛切な、苦痛をともなった意識なんだ! ぼくはあすにも、あの女の魂をけがし、彼女の心を疲れきらしてしまうかもしれない。だが、このままなら、屈辱は彼女のなかでけっして死に絶えることがない。そして、彼女の行手にあるけがれがどんなに醜悪なものであっても、屈辱は彼女を高め、清めてくれるだろう・・・憎悪によって・・・ふむ・・・あるいは、赦しの気持によってだ・・・だが、それにしても、そのために彼女が楽になれるものだろうか?〉
ドストエフスキー/江川卓訳「地下室の手記」(新潮文庫)P202

対立する2つの心象の解明、解決こそ19世紀のドストエフスキーの創造のテーマの一つだったのだと思うが、我ら人間の業力は天才の想像力をもってしても超えることはできなかった。ドストエフスキーの思念を引き継いだのは誰か? それこそショスタコーヴィチだったのだろうと思われる。強いて言うならドストエフスキー的対立二元を二枚舌で喝破しようとしたのが20世紀のドミトリー・ショスタコーヴィチの生きる目的だった。

ショスタコーヴィチにとって創作は、現実の痛みを忘れるための手段だったと思われる。
ナチス・ドイツに勝利したソヴィエト連邦にあって、誰もが期待した雄渾かつ喜びの解放を表すであろう創作物に、冗談めいた、滑稽な、小交響曲を充てたのは「屈辱による浄化」を作曲者が目指したからではなかったか。

ショスタコーヴィチの明朗快活な傑作をこれほどセンシティブに、しかも真正面からの喜びをもって表現したのはカエターニの高邁な(?)手腕に尽きる。第9番変ホ長調第3楽章プレストの有機的な響きから第4楽章ラルゴにかけての真摯な音楽こそクライマックスだろうか。

ショスタコーヴィチ:
・交響曲第9番変ホ長調作品70(1945)(2003.2Live)
・交響曲第10番ホ短調作品93(1953)(2002.3Live)
オレグ・カエターニ指揮ミラノ・ジュゼッペ・ヴェルディ交響楽団

対してスターリン没後に書かれた交響曲第10番ホ短調の、どうにも暗澹な表情づけ(?)は、これこそショスタコーヴィチの代弁者たるカエターニの真骨頂。獰猛なる(?)第2楽章アレグロを聴きたまえ! そうして、続く第3楽章アレグレットの静かな闘争。ホルンで奏されるEAEDA音型に感じる生への希望と憧憬。しかし、それも束の間音楽は、終楽章アンダンテ—アレグロにおいて一層沈潜し、音楽は高次の扉を開く(空想にふけることで、生きた心の痛みを忘れたかったのだ)。僕はオレグ・カエターニの魔法にはまる。

この手記の筆者も「手記」そのものも、いうまでもなく、フィクションである。しかしながら、ひろくわが社会の成立に影響した諸事情を考慮に入れるなら、この手記の作者のような人物がわが社会に存在することはひとつもふしぎでないし、むしろ当然なくらいである。私はつい最近の時代に特徴的であったタイプのひとつを、ふつうよりは判然としない形で、公衆の面前に引きだしてみたかった。つまりこれは、いまなおその余命を保っている一世代の代表者なのである。
(フョードル・ドストエフスキー)
~同上書P5

1864年に上梓されたドストエフスキー自身による緒言を読むにつけやはりショスタコーヴィチこそがドストエフスキーからバトンを受け継いだ天才だったのではなかったかと思う。光と闇・・・。

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