内なる自分と対峙する瞬間・・・

茶湯が道教、禅と深い結びつきをもっていることは以前から知っていたが、岡倉天心の名著「茶の本」をじっくり読むにつれ、茶道というものがただならぬ神性に満ちているものだということが確信でき、ますます興味を持った。
道教の絶対は「相対」であり、常に陰陽をひとつとして捉えることにその真髄があるが、その心が「茶湯」の儀式に投影されているとなると、その美学をどうにかこうにか体感したくなる。またしても勉強、研究の虫が蠢く(笑)。
ところで、禅の開祖は達磨であるが、今日のような形を最初に説いたのは六祖慧能であるそう。その慧能があるとき、風にはためく塔上の旗を2人の僧が見つめているのを見て、僧のひとりが「動いているのは風である」と言い、もうひとりが「動いているのは旗である」と言った際、彼らに次のように説法したという。
「真に動くものは風でも旗でもない、お前たちの精神の内部の何ものかである」

なるほど、見えるすべての現象は自分自身が作り出したものだということになる。単なる思考の現実化云々というレベルの話でなく、外にあるものは幻想で、内なるものこそが真実だということ。要は、比較することなく何事も自らの直観に従い、自分で決めることが大事。そして、自らを律する基本は「ありのまま」、すなわち「脱力」。何やら合気道においても同様のことを教えられているように感じる。

中世・ルネサンス期の教会音楽を耳にすると、それだけで思考がストップする。もちろん歌われている内容に関して心底理解しえない宗教的ギャップがあるのも確か。聖金曜日、あるいは聖木曜日といわれても敬虔なクリスチャンでない僕にとってはそのこと自体がよくわかっていない。それでも・・・、少なくとも「音楽」を聴く限りにおいて心洗われる瞬間が頻出するのだから、そういった作品が感性をそもそも刺激する「波動」に満ちているのだろうと思われる。
17世紀フランスで活躍したマルカントワーヌ・シャルパンティエを聴く。

マルカントワーヌ・シャルパンティエ:聖木曜日のルソン・ド・テネブレ
ルネ・ヤーコプス指揮コンチェルト・ヴォカーレ

旧約聖書の「エレミヤの哀歌」につけられた声楽曲であるルソン・ド・テネブレ。それは紀元前6世紀のエルサレム崩壊のため俘囚の身となったユダヤ人の嘆きの歌。本盤では指揮者のヤーコプス自身がアルト及びカウンターテナーのパートを歌っているが、これが何とも中性的でバランス感覚に優れた音楽となっている。
深夜にルネサンス期の宗教音楽を独り静かに味わうという試みは真に贅沢なり。数百年の前から音楽というものが精神を安寧に導く役割を担っていたんだろうことが一層理解できる。
これこそ自然、宇宙(そして内なる自分)と対峙する瞬間・・・。


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