ラーション ロサンゼルス・マスター女声合唱団 カリフォルニア・ポーリスト少年聖歌隊 サロネン指揮ロサンゼルス・フィル マーラー 交響曲第3番(1997.10.19録音)

晩年のマーラーの苦悩。
盟友(弟子)ブルーノ・ワルター宛の手紙には、内面を赤裸々に語る覚悟があり、自身の仕事に対する課題や未来を見据えた挑戦までもが垣間見られ、興味深い。

願わくば私の沈黙を君がくよくよと考えたりしないでいてくれたらよかったのですが。とてつもない仕事の重荷以外のいかなる理由もないのですから(ウィーン時代を思い出させる)、おかげでたった4つのこと以外には何一つできなかったのです—すなわち、指揮をすること、音符を書くこと、食べること、寝ること、以上です。後から顧みて、私はまったく手の施しようがない、と気づく次第です。我々のような者は、何かするときには徹底的にするしかないのです。それがつまりは、まさに私の場合がそれに当たるが、労働過剰になるのです。とにもかくにも、永遠の初心者で私はあり、そうでありつづけるのです。そして私が獲得したわずかばかりの熟練はまた、せいぜいのところ、私の私自身への要求を高めるのに役立つのみです。自作の総譜を5年ごとに新たに編集しなおしたいと思うのと同じく、他人の作品を指揮するに当たっても毎回新たに準備することが必要なのです。私にとって慰めとなるのはただひとつ、私は今まで歩んできた道程においてそもそも新たな方向を打ち出すことはなかったこと、つねに旧来の方角へ歩み続けざるを得なかったことでしょうか。—しかしついには新大陸への移住者よろしくつるはしとシャベルで耕しにかからなければ気が済まずに、またしても今までたどってきたあらゆる軌道から遠ざかってしまうのです。—ここから、自ら企てるあらゆる事柄において私が経験する、激しい矛盾の説明がつくかもしれない。—当地の私のオーケストラはまさしくアメリカのオーケストラです。才能もなく鈍感です。多勢に無勢です。指揮者としてふたたび初めからやり直すのは、私にとってはまことに嬉しくない仕事です。唯一の私の喜びは、まだ手垢のつかない作品の練習です。音楽をすることは今なお私にとてつもない喜びを与えてくれるのです。ほんのわずかたりとも、もう少しましな楽師たちとだったなら!
(1909年12月18日あるいは19日、ブルーノ・ワルター宛)
ヘルタ・ブラウコップフ編/須永恒雄訳「マーラー書簡集」(法政大学出版局)P389-390

当時のアメリカのオーケストラの質は相当まずいものだったのだろうが、こういう愚痴もいかにもマーラーらしい。常に革新を思っていた心とは裏腹に日々ルーティンに忙殺される矛盾の落としどころ。おそらくそれは音楽をすること以外になかったのだ。マーラーはワルターに続ける。

《第3》を君が演奏してくれたというニュースは私にはたいへんな喜びでした! それによってかくも大きな成功を収められたとは、とりわけ君にとっては何とよかったことか。異口同音の報告(距離をとっている人々からさえも)によれば演奏は尋常ならざるものであったに相違ありません。
(同上手紙)
~同上書P390

ちなみに、この頃の「ワルターの手紙」をひもとくと、確かにその成功を喜ぶワルターの言葉がある。

みなみなさま!
今日は簡単な報告のみにとどめます。昨晩マーラーの「第3交響曲」の演奏で、ぼくの人生にて最大の成功を収めました。感動と歓呼と熱狂は、まことに恍惚たるものがありました。このような大喝采をいまだ博したことはなく、それに似たものをいくたびか経験した程度です。新聞の報道は後便にて。今日は各方面から書状や口頭や電話でぼくに祝辞の雨でした。感激に酔いしれているありさまです。

(1909年10月26日付両親宛)
ロッテ・ワルター・リント編/土田修代訳「ブルーノ・ワルターの手紙」(白水社)P114

使徒ブルーノ・ワルターにマーラーの「第3番」の録音が(たとえ実況盤でも)残されていないことが残念だ。1世紀前の聴衆にはさぞ難解であっただろう「第3番」がウィーンで好意的に受け止められ、そして歓呼と熱狂に満ちたというのだからそれは歴史的名演奏であったに違いない。

マーラーの交響曲第3番を聴く。
いまやマーラーの交響曲には数多の名盤があるが、今日も若きサロネンの棒によるマーラー。輪郭がはっきりした、見通しの良い、そして目的地が明確な、いかにも作曲家という解釈が見事。

・マーラー:交響曲第3番ニ短調(1895-96)
マーティン・チャリフォー(ヴァイオリン)
ドナルド・グリーン(ホルン)
ラルフ・サウアー(トロンボーン)
アンナ・ラーション(アルト)
ロサンゼルス・マスター女声合唱団(ポール・サラムノヴィチ合唱指揮)
カリフォルニア・ポーリスト少年聖歌隊
エサ=ペッカ・サロネン指揮ロサンゼルス・フィルハーモニック(1997.10.19録音)

第1部を構成するのは30分を要する第1楽章のみ。しかし、この楽章にこそマーラーの真髄があり、冒頭の主題(ブラームスの交響曲第1番終楽章の主題を引用したともいわれるがそはいかに)が再現されるシーンの懐かしさたるや!
続く第2部、第2楽章テンポ・ディ・メヌエットも第3楽章コモド・スケルツァンドもいわば「舞踊の歌」だが、マーラー流の、20世紀流の複雑な音楽が見事に解体され、料理されていく様子にサロネンの指揮者としての才能を思う。

ニーチェの「ツァラトゥストラ」をテクストにした第4楽章におけるラーションの歌の透明感、あるいは甘美な色気。終楽章の前触れたる少年合唱によって繰り返される「ビム・バム」が可憐な第5楽章(交響曲第4番終楽章との連関を自然体で描くサロネンの天才)から安息に満ちる終楽章の美しさに感激。理知という表現が正しいのかどうかわからないが、これほどまでに整理整頓され、(あくまで個人の感想だが)録音の良さと相まって最初から最後まで無理なく聴かせる演奏に拍手を送りたい。

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