もう一つの知らせは、私が委嘱作品を書いていることだ。そのせいで体調が良いのかはわからない。ともかく仕事に集中し、朝から晩までかかりっきりだ。全5楽章に及ぶ大規模な作品で、4楽章まではもう完成した。現在は終楽章と闘っている。いろいろな理由でここが難所だ。なんとかここにいる間に完成させたい。
(1943年9月26日付、息子ペーテル宛)
~ペーテル・バルトーク著/村上泰裕訳「父・バルトーク―息子による大作曲家の思い出」(スタイルノート)P369
この作品の最良の演奏だと今でも僕は思う。
録音からすでに40年近く経過するが、確信に満ちた音楽の造形は今でも色褪せることはない。
1944年12月の(ボストンでの)協奏曲初演の大成功と、その結果巻き起こった全世界的な讃辞は音楽史の史料で幾度となく伝えられてきた—聴衆は一聴するたこの傑作を受け入れ、愛した(この作品の委嘱者であるクーセヴィツキーもまた心を奪われてしまった)—プレミア後の数ヶ月、バルトークと私はよく談笑した。突然彼は尋ねてきた。「この協奏曲の第4楽章で私がパロッたものが何かわかるかね?」それは、Intermezzo interrottoという断続的な間奏曲であった。庶民的な「バンド音楽」によって荒々しく中断される別個のリズムを持った、2つの交互に現れる旋律で成立しており、その後、先の旋律が続き、やがて柔和に終わるのであった。粗暴でありふれた、しかも出しゃばった音楽はまさしく冗談であり、友人と私は随分前からバルトークがもじろうとしていたものを想像していたのだった。「ああ、知っているとも。『メリー・ウィドウ』だろ?」当惑してバルトークが次のように尋ねたときは本当に驚いてしまった。「誰だい、それ?」私は自分の言おうとしたことを簡単に説明して、『Heut’ geh’ ich zu Maxim』の出だしを囁いた。するとバルトークは微笑んで首を横に振った。「君が言おうとしたことはわかっているよ。でも、そうじゃない」そして、彼は私に言った。彼がパロッたのは何とショスタコーヴィチだったのである。
(アンタル・ドラティ)
作曲者本人と通じていたドラティの興味深い証言である。
最晩年、病身を押して作曲した作品は、ドラティの言う通り、最高傑作として世界を席巻した。
1942年7月19日、ベラ・バルトークは家族と共に、その日アメリカで初演されるショスタコーヴィチの交響曲第7番を聴くためラジオの前に座っていた。
「ショスタコーヴィチはいったいなぜあんな主題を!・・・。」父はまだぼやいていて、これはパロディにできるかもしれないなどと冗談半分に言った。いたずら好きの私は味方して、「おもしろそうだね」とけしかけた。だが、父はもう一度考えて、「無理だな」とアイディアを引っ込めた。つまり適切ではないということだった。父がこの件を話題にしたのはそれきりだった。
~同上書P225
息子ペーテルの証言にはそうある。そして、友人の医師であるイシュトヴァーン・シュガールのバルトークとの思い出を次のように引用している。
そういえば、この曲(ショスタコーヴィチの第7交響曲)がラジオ放送された時、私も一緒にケチケメーティ君のアパートで聴いたのを思い出しました。このあたりに来た時、ふと先生に目をやったら、先生は笑顔で、肩も少し踊っていました。お一人で楽しんでいるようでした。もちろん、それ以上のことはわかりませんでした。
~同上書P227
病床にありながら、バルトークのユーモアというのか、あるいは余裕というのか、創造力旺盛な姿勢と天才に舌を巻く。
バルトーク:
・管弦楽のための協奏曲Sz.116(1943)
・2つの肖像作品10 Sz.46(1910)
アンタル・ドラティ指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団(1983.6録音)
音楽は第1楽章から敬意と思い入れをもって歌われる。咽び泣く第3楽章エレジーの終盤に顔を出す、カノンの音型に似たフレーズから木管の独奏が鳥のように囀る瞬間のカタルシス。ドラティとコンセルトヘボウによる宇宙は静かに瞑想する。また、憧憬に溢れる第4楽章「中断された間奏曲」の優しさよ。そして、作曲者自身が最も難所とした終楽章の喜び!