ワーグナーはやっぱりワーグナー

ワーグナーを聴き込み過ぎたせいか肩が重い。(笑)
僕の見解では、晩年になるにつれ独自の再生論によりその作品は一層崇高で透明な境地に進化するように思うが、一般的にいう「反ユダヤ」思想が根底に流れていることもあり、その意味では歴史的に大いなる怨念が棲みついているようで、ここにワーグナー作品を聴き続けるデメリットがあるように思われる。

8月15日の中島剛リサイタル(マッジョラータ主催)にナビゲーターとして登壇する。オール・リスト・プログラム。僕の苦手なフランツ・リストなのである。何が苦手かというと、彼自身が19世紀を代表するヴィルトゥオーゾ・ピアニスト・コンポーザーであったこと。それによって作品の数が尋常でなく、しかも初稿やら改訂稿やら、何が何だかさっぱりわからない。その華麗な女性遍歴や人生同様全体が掴みにくいのである。いや、人生などはまだよい。伝記の類を読み漁れば、彼の生涯の流れのおおよそはしっかりと確認できる。それが作品となると・・・、音楽家でもない僕にとっては理解すること自体が極めて重労働なのである。要は、「全体観」を重視する僕にしてみると非常に手強い相手だということだ。

という泣き言はここまで。そんなリストの膨大な作品群の中でもロ短調ソナタだけ(?)は大傑作だと太鼓判を押す。これはピアニストの最も弾きたい作品ナンバーワンの常連作だけれど、とにかくその構成が素晴らしい。ソナタ形式といわゆる4つの楽章構成を混合し、「すべてがひとつである」ことを表現した最初のものではなかろうか。思想的にも音楽的にもこれ以上はないという凝縮された世界で、まさに「音楽のうちには天使も悪魔も在る」という一元世界を現出させた神業だと僕は思うのだ。

ところで、リストと愛人マリー・ダグー伯爵夫人の間には何人かの子どもがいるが、その一人が後にワーグナーの妻となったコジマであることは有名な話。そう、リストはワーグナーの義父ということ。ワーグナーが亡くなった時にリストが書いた「悲しみのゴンドラ」や「リヒャルト・ワーグナーの墓に」は最晩年のリストの孤高の境地を表す研ぎ澄まされた名曲であり、これらを耳にするだけでも2人は当然互いに意識したであろうし(尊敬し合っていた?)、もちろん影響を与え合っていただろうことが如実にわかる。

舞台総合芸術に命を懸けたリヒャルト・ワーグナーにはいわゆるムジークドラマ以外の作品は少ない。”The Other Wagner”と題された稀少曲のセットからピアノ作品と歌曲が収録された1枚。ここにもワーグナーの毒はある。

ワーグナー:
・黒鳥館に到着して(アルバムの綴り)(1861)
・M.W.夫人のアルバムのためのソナタ変イ長調(1853)
・ジークフリート牧歌(ルビンシテイン&ルディ編曲)
ミハイル・ルディ(ピアノ)(2001.3.19-23録音)
・3つの歌~第2曲「かわいい人」(ロンサール詩)(1839)
・すべては束の間の幻(1839)
・二人の擲弾兵(ハイネにより、レーヴ・ヴェイマールの仏語訳)(1840)
・ゲーテのファウストのための7つの曲~メフィストフェレスの歌第1(蚤の歌)(1831)
・ゲーテのファウストのための7つの曲~メフィストフェレスの歌第2(1831)
・樅の木(ショイアーリン詩)(1838)
トーマス・ハンプソン(バリトン)
ジェフリー・パーソンズ(ピアノ)(1993.2.24-26&3.1録音)
・ヴェーゼンドンク歌曲集
ジェシー・ノーマン(ソプラノ)
アーヴィン・ゲイジ(ピアノ)(1969.9録音)

ヴェーゼンドンク夫人にまつわる作品以外はほとんどが若き頃のもの。しかし、拙筆はひとつもない。官能的なメロディがどの作品のどの瞬間にも表出するところがむしろ驚異的。人間の本質というのはそもそも変わらないということが彼の音楽を俯瞰してみてよくわかる。僕が最も興味深いのは、ティーンエイジャーの時にすでにゲーテの「ファウスト」に曲をつけている点。ワーグナーの先見の明、というか天才というか、後に「悟り」を開く源がすでにここに見られる。
それにしても楽劇を聴くに比べてほとんど重荷にならない。
酔い覚ましに、こういうワーグナーの聴き方もお薦めなり。

 


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