一気呵成の、温かい交響曲第8番ヘ長調。
しかし、意外にテンポは順当である。
ピエール・モントゥーの思念が乗り移るある種過激な音楽は、ベートーヴェンの革新を示すものだ(それは続くレスピーギ編曲によるバッハのパッサカリアとフーガの演奏についても同様だ)。
かつてリヒャルト・ワーグナーが書いた、交響曲第8番にまつわる当時の不満足な演奏表現は、時を経るにつれ、よりワーグナーが求めるものに変貌していった。モントゥーの刺激的な第8番はテンポの問題を重視するワーグナーを驚嘆させたかもしれない。
ベートーヴェンも交響曲にメヌエットを用いており、ヘ長調交響曲のそれは正真正銘のメヌエットとして構想されている。彼は、比較的大きな2つのアレグロ楽章の間に、まず「アレグレット・スケルツァンド」を、そして、その後に、これとは対照的な性格を持ちながら幾分かは補完的な関係にもあるメヌエットを配し、そのテンポに関する自分の意図について疑義が生じないようにしておこうと考えて、「メヌエット」ではなく「テンポ・ディ・メヌエット」と記したのである。ところが、シンフォニーの中間部としてはそれまでになく斬新なこの第2、第3楽章性格づけはほとんど無視されてしまい、アレグレット・スケルツァンドは普通のアンダンテにとられ、テンポ・ディ・メヌエットも、これまたお決まりの「スケルツォ」として演奏されるようになった。このような解釈では中間部の2つの楽章がいずれもその持ち味を生かしきれないために、この素晴らしい交響曲全体の評価もそれにつれて低下し、イ長調交響曲で獅子奮迅のはたらきを見せたベートーヴェンの楽神が、ここらでちょいとひと休み、といった気分で片手間に産み落とした二級品という評価が今日の音楽界に定着してしまったのである。そうなると、この曲に期待できるのは、幾分もたつき気味のテンポでアレグレット・スケルツァンドを聞かされた後で、口直しにテンポ・ディ・メヌエットを決然たる調子でレントラー風に演奏してもらって、少しは気分を爽やかにするというのが関の山で、それも、終わってみれば後には何も残らない。
(三光長治・池上純一訳「指揮について」(1869))
~三光長治監修「ワーグナー著作集1 ドイツのオペラ」(第三文明社)P220-221
当時の演奏スタイル、指揮者の技術的問題などもあろうが、ワーグナーの指摘はいちいち的を射ていたのだろうと想像する。そもそも交響曲第8番を絶対的に評価していた彼にとってあらゆる演奏が解せず、納得の行くものではなかった。
どの曲もモントゥーの気迫がすごい。
バッハの名作も、超弩級の轟音響くベルリオーズも素晴らしいが、白眉はやっぱりベートーヴェン。決して軽量級の音楽に陥らせず、堂々たる造形をもって、そして迫真の、同時に適正なテンポを伴なって響く2つの中間楽章が聴く者の肺腑を抉る・・・、いや、この言い方は違うかもしれない。正確なビートを刻む華麗な舞踊が喜びを喚起するのである。
終楽章アレグロ・ヴィヴァーチェの暑苦しいまでの快活さこそサンフランシスコ響時代のモントゥーの真骨頂だろう。