ワーグナーの「力」

wagner_flagstad_furtwangler_1948.jpg明日の「早わかりクラシック音楽講座」に備えて、採り上げるべき楽曲をどうするか決めようと音盤をとっかえひっかえ聴いてみた。ホルストの生涯を振り返るとき、若き日の彼がワーグナーの楽劇「神々の黄昏」に触れ、衝撃を受けたこと、そしてバッハの「ロ短調ミサ曲」の実演を聴いた時にはそれまで感じたことのない感銘を受けたことが音楽家としての大きな分岐点になり、その後しばらくはワーグナーの呪縛から逃れられないままこの大作曲家の影響下に楽曲を創造したことが、一方でホルストという作曲家の行く末を決定したことがよく見えて面白い。ホルストに限らず、19世紀末から20世紀前半にかけて、ヨーロッパの作曲家の多くはこの誇大妄想癖の変人音楽家の影響をもろに受けた。それくらいに巨大で、しかも人間の喜怒哀楽のあらゆる感情、そう聖なるものも俗なるものもすべて含んだ音楽作品を世に問うたワーグナーの「力」は途轍もないものなのである。それは、おそらく21世紀の今の時代になっても、バイロイトの内側で様々な問題が起こっていることを考えるにつけ、ワーグナーのもつ「見えない」力は依然として衰えていないことにもつながりそうだ。彼の「毒」は音楽に限ったことではない。

いつ何時聴いてもワーグナーの音楽には圧倒される。否、というより仰々しいばかりの音圧に託された人間のエゴイズムというものが、そう、愛も憎しみもすべての「想い」が眼前に姿を現すようで畏れすらを感じさせてくれる。

久しぶりに「神々の黄昏」からクライマックスの部分を聴こうと、例のフルトヴェングラーがフラグスタートと録音した昔の音盤を取り出してみた。そういえば、このコンビは「ブリュンヒルデの自己犠牲」を2度ほどレコーディングしていることを思い出し、初めて聴いた高校生の時に感動した新しい方の音盤(1952年盤)ではなく、古い方の(1948年盤)SP盤からの復刻盤であるオーパス蔵盤で聴いてみようとオーディオ・システムの前に陣取った。

激しい針音の中からまずは舞台神聖祝典劇「パルジファル」の前奏曲と聖金曜日の音楽が流れる。恍惚としたこの聖なる音楽をフルトヴェングラーの永遠を感じさせる表現で聴くとその字の通り「時」を忘れられる。まもなく針音などまったく気にならなくなる(次代に残すべき名録音だろう)。続くベルリン・フィルとの「トリスタンとイゾルデ」から前奏曲と愛の死も素晴らしい。この激情、そしてうねり・・・。今さら僕があれこれと論じる余地のないエロスの音楽であり、表現だ。

ワーグナー:楽劇「神々の黄昏」~ブリュンヒルデの自己犠牲
キルステン・フラグスタート(ソプラノ)
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮フィルハーモニア管弦楽団(1948録音)

「ブリュンヒルデの自己犠牲」については、かのクナッパーツブッシュも、あるいはベームも、もちろんブーレーズもお呼びでなく、フルトヴェングラーを第一に僕は推す。それくらいに指揮者の表現と歌い手の想いが音楽と一体化しており、ワーグナーという稀代の作曲家のすべてが表されているようで、60年以上前の古い録音から「そういうこと」が感じ取れるところが見事である。

若きグスターブ・ホルストが体験したであろうワーグナーの大音響的官能スペクタクルの醍醐味(もちろん実演には到底敵わないが)を明日ご参加いただいた方にもご堪能いただこうか、そんなことを思いながら音楽を聴いた。

今日も良い一日だった。感謝・・・。


4 COMMENTS

雅之

こんばんは。
フルトヴェングラー&フラグスタートのワーグナーは、おっしゃるとおりですね。ワーグナーの音楽の持つ情念の表現という点では空前絶後で、それが古い録音からもよく伝わりますよね。しかし、凄いのはわかっているのですが、中々聴こうという元気にはなれなかったので、今回採り上げられたのをきっかけに、久しぶりに聴いてみようかと思いました・・・。
・・・すみません。今夜、私の気分はどうしてもフルトヴェングラーのワーグナーではありません(どうかお許しください)。
私が、今夜興味を持って音盤をいろいろ渉猟しておりましたのは、ワーグナー(1813年5月22日 – 1883年2月13日)とまったく同じ年に生まれた、フランスのロマン派の作曲家、ピアニスト、シャルル・ヴァランタン・アルカン(1813年11月30日 – 1888年3月29日)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AB%E3%83%AB%EF%BC%9D%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%82%AB%E3%83%B3
の曲でした。
マルカンドレ・アムランのCDでのアルカン演奏は凄いです。
また、ユーチューブでアルカン/モーツァルト/ピアノ協奏曲第8番(現20番K466)独奏用編曲というのを見つけました。これは、物凄い聴きものです。フンメルの室内楽版どころではないです。
驚きました。
http://www.youtube.com/watch?v=tceOG9JO4kw
同い年のワーグナーとアルカン、お互い交流や面識はあったのでしょうか?

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雅之

アルカン/モーツァルト/ピアノ協奏曲第8番(現20番K466)独奏用編曲について勉強になったサイトです。
http://www.piano.or.jp/enc/dictionary/composer/alkan/011116.html
・・・・・・これはアルカンの個人的な矛盾というよりは、彼の生きた時代が抱えていた矛盾である。19世紀という時代は、前を向きつつも、同時に後ろ向きな時代でもあった。初期産業時代の進歩観と独創性理念のもとに新しさが追求される一方、過去の音楽的遺産に見出された独創性は、時代を超越する永遠の価値、古典性として尊重され、復興・擁護の対象となったのである。
 この新しさと古典性の同居はアルカンという個性の本質的な一面をなしている。彼はバッハ作品の支持者であったが、彼は演奏家として、その普及の可能性をエラールが開発した新しい足鍵盤つきピアノに見出していた。演奏会では自作とバロックから年下のサン・サーンスに至る様々な演目を混ぜ合わせた。そして作曲家としては古い様式をモダンな語法の中に昇華させた。アルカンはその意味で、新しさと古典性の狭間に生まれた19世紀パリの申し子であった。そしてその特徴は、この協奏曲編曲に非常に克明に現れているのである。・・・・・・(上記サイトより)
>ホルストの生涯を振り返るとき、若き日の彼がワーグナーの楽劇「神々の黄昏」に触れ、衝撃を受けたこと、そしてバッハの「ロ短調ミサ曲」の実演を聴いた時にはそれまで感じたことのない感銘を受けたことが音楽家としての大きな分岐点になり、その後しばらくはワーグナーの呪縛から逃れられないままこの大作曲家の影響下に楽曲を創造したことが、一方でホルストという作曲家の行く末を決定したことがよく見えて面白い。
「新しさと古典性の狭間に生まれた」という意味では、グスターヴ・ホルスト(1874年9月21日 – 1934年5月25日)とその作品にも、アルカンと同じことが言えるのではないでしょうか。
そして、フルトヴェングラー(1886年1月25日 – 1954年11月30日)についても19世紀の精神が・・・。

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岡本 浩和

>雅之様
おはようございます。
今日はまた貴重な情報をありがとうございます。
アルカンについては、残念ながらほとんど聴いたことがありません。昔アムランの音盤が発売された頃、レコ芸誌上で評論家諸氏が絶賛されている文章を読んで興味をもったものの、そのまま通り過ぎてしまった作曲家です。
それにしてもモーツァルトの20番のピアノ編曲版、これはすごいですね!驚きです。原曲をほ忠実に再現しながら、カデンツァではとびきりのイメージの飛翔を見せるところが天才的で、まさに「新しさと古典性の同居」という性質が目の当たりにできますね。俄然アルカンを研究したくなりました。
ところで、アムランのアルカンは未聴なのですが、いいんですか?何年か前にアムランの実演を紀尾井ホールで聴いた時(曲目は何だったかなぁ?)、音盤で聴くほどの感銘が得られず、いや、というより随分失望したことを思い出します。テクニックばかりが目立ち、心に響いて来なかったんですよね。どう思われますか?
ご紹介のCD、ワーグナーの方は僕も所有しております。白神典子のフンメルの方は未聴ですので、アルカン版との比較という意味でも聴いてみたいと思いました。

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