
久しぶりにシプリアン・カツァリスのワーグナー・トランスクリプション集を聴いたが、ピアノ独奏で聴くワーグナー音楽の強烈なエネルギーに晒されて、心と身体が安息の状態に還ったことを思い知らされた。
いわゆる本性と、いわゆる性格と、そのいずれをも本当は認識しなければならないのだと思う。しかしながら僕たちは、意識を自分自身だと思ってしまうゆえ、本性というものを認識するのが実に難しい。
リヒャルト・ワーグナーも巷間、良い意味でも悪い意味でも誤解されていると僕は思う。
おそらく彼の言動は他人に誤解を与えるようなものだったのだろうと想像する。彼が論文でどれほど誤解を解こうとしても言行一致でなかった可能性は高い。
『さまよえるオランダ人』、『タンホイザー』そして『ローエングリン』と続く最初の3つの台本は一連の理論的著作を執筆する以前に書き上げて作曲も終え、『ローエングリン』以外は舞台でも上演済みであった。したがって、これを順に読んでゆけば(題材だけを手掛りにしてこうした議論を組み立てることが十分に可能であると仮定したうえでの話ではあるが)、私の芸術的創造力が次第に展開されてゆき、ついには自分自身の手法について一度理論的な総括を行なっておこうと痛感するようになるまでの過程が明らかになるのではないかと思う。こんなことを言うのは、ほかでもない、ワーグナーは自分で立てた抽象的な規則に合わせようと考えて計画的にこの3つの作品を書いたのだ、と無理にでも思い込もうとしちる連中のとんでもない誤解を指摘しておきたかったからだ。実態はむしろ、同時にもう一方でニーベルングの壮大なドラマの計画を胸中にあたため、一部はすでに台本の執筆にも着手しながら構想を練り上げてゆくうちに、演劇=音楽的な芸術様式を実現すべし、という大胆きわまりない結論が自然に浮かび上がって来たのであるから、私の理論は自分自身の内部で次第に形を成していった芸術創造の過程を抽象的に表現し直したものに過ぎないと見るべきであろう。
(池上純一訳「未来音楽」(1860))
~三光長治監修「ワーグナー著作集1 ドイツのオペラ」(第三文明社)P148-149
ワーグナーの思考回路は奥深く深遠で、そしてまた縦横無尽だった。
これほどの作品がほぼ同時に創造される奇蹟に後世の僕たちは感謝せねばならないだろう。そして、彼の著す各々の論文を読破して、思想の断片、及びその進化のほどが(少なくとも当時の)常人の理解を大きく超えるものだったことが理解でき、興味深い。
ピアノ・トランスクリプション集は、ワーグナーの思想の意義をより身近にしてくれる存在だ。それほどにシンプルでありながら色彩豊かに描くカツァリスの技量に驚嘆せざるを得ない。
「タンホイザー」序曲に始まり、「トリスタン」前奏曲で締めるというプログラミングの妙。
やはりワーグナー自身による編曲ものは出来が違う。
(それにまた純粋なピアノ曲である「アルバムの綴り」の素晴らしさ!)
幾度か繰り返し聴いたが、カツァリスによる名盤の一つだと思う。
[…] ターン・コチシュが録音したワーグナーのトランスクリプション集が素晴らしい。シプリアン・カツァリスの奏でたそれとはまた違う、無色透明な、純度の極めて高いワーグナー音楽が聴 […]
[…] トゥオジティを世間に見せびらかすためのスコアだという見方もできないではない。ワーグナー自身の、もっと的を射た(?)、端正でふくよか、まさに「タンホイザー」序曲たるピア […]