心が傷いときの、とっておきの音楽

mozart_requiem_bernstein.jpg人はストロークを得られないと見事に意気消沈する。やっぱり誰かに愛されている、必要とされている、受け容れられているという感覚こそが「生きる」力につながるのだ。それにはコミュニケーションが、それも質の高い交流が必要だ。ここでいう「質」とはハイレベルの会話をするという意味ではない。感情を露わにするほどお互いが自己開示し、そしてじっくりと相手の話を聴き、受容するという姿勢をもつ「深く密度の濃い」交流のことをいう。

とはいえ、「否定されたくない」という想いから人は誰しも自身を隠してしまう。「受け容れられたい」という願望が強過ぎるあまり本当の自分自身をオープンにできない。それで壊れるくらいの関係なら最初からあってないようなものなのに。そんな関係ならば早いとこ解消した方が良い。

自由であること。ありのまま。人が才能を発揮できる瞬間とはそういう状態だろう。心が傷いときに、とっておきの音楽がある。
悲しい時には悲しい曲を、嬉しい時には楽しい曲を。感情を解放するためにその感情と同種の傾向を持つ楽曲を聴くことが「癒し」につながるとのことだが、例えばモーツァルトの未完の大作「レクイエム」などは、「傷ついた時」に最も相応しい音楽ではないか、僕はそう考える。その分、日常茶飯事的に聴いていられる音楽ではない。外界の情報を遮断し、独りきりで、静かに耳を傾けること・・・。

第1曲レクイエムに始まり、第2曲キリエに傾れ込むやすでに頭の中は真っ白になる。第3曲ディエス・イレ(怒りの日)、第4曲トゥーバ・ミルム(奇しきラッパの響き)と聴き進む。絶筆第8曲「ラクリモーサ(涙の日)」に至っては涙なくしては聴けまい。まさに全感情の吐露だ。

モーツァルト:レクイエムニ短調K.626(バイアー版)
マリー・マクローリン(ソプラノⅠ)
マリア・ユーイング(ソプラノⅡ)
ジェリー・ハドリー(テノール)
コルネリウス・ハウプトマン(バス)
レナード・バーンスタイン指揮バイエルン放送交響楽団&合唱団

昨日の記事では、モーツァルトの音楽における「真面目と不真面目の混在」について少々触れたが、最後の「レクイエム」に至っては一切の冗談が通じない、あくまで「重い」音楽として作られている。そして、バーンスタインの唯我独尊的解釈がそれに輪をかける。しかし、それは致し方ない。何せ目的が「死者のための鎮魂」なのだから(それにしてももう少し清澄で、死者が静かに昇天できるような音楽作りだったらもっと一般的に受容されたかも。個人的には愛してやまない音盤だが)。


2 COMMENTS

雅之

おはようございます。
最初に一度コメントしたかったことを少々、まあ阿呆な中年サラリーマンの、酒の席での戯言くらいに聞き流してください(笑)。勿論、反論は大歓迎ですよ。
どうも私の気質で考えると、岡本さんは「愛」を強調し過ぎているような気がしています(失礼)。私の価値観では、「愛」は水や空気のように、ごくありふれた存在で、人間としてそれを重視していくのは当然なのに、必要以上に抽象的に「愛」「愛」と連呼するのは、それこそ鳩山さんの「友愛」のように、他人の実質的な幸福にはつながらないような気がします。意識し過ぎると依存心ばかりが強くなり、逆に遠ざかっていくのが「愛」の本質だと思います。「愛は陽炎(かげろう)」
逆説的ですが、私にとっては「愛」よりも、孤独に耐える強靭な力を養成することのほうが、よほど重要だと感じます。
それと、「愛の反対は、憎しみではなく無関心」(マザー・テレサ)なので、「無意識での無関心からくる、他人の気持ちに対する無理解」の克服のほうが、「愛」そのものよりも重要であるというのも、私の価値観です。
それにしても、現代人って、何でそんなに心が傷つきやすいのでしょうか? 第二次世界大戦のころも、戦後高度経済成長期も、今よりももっともっと過酷な状況や生活でも、「PTSD」だの「トラウマ」だの、そんな甘っちょろい言葉では誰も慰められなかったでしょうに、やはり我々戦後世代は過保護に育っているのに加え、社会構造、経済構造の問題が極めて深刻になったいうことが最大の理由でしょうね。
でもね、あまり「スピリチュアル」とか「癒し」とかに関心が向かい過ぎると、本当に「オウム」とか、サプリメントの「ネットワーク・ビジネス(ネズミ講」やっている人の精神構造と変わらなくなるので、気を付けたほうがいいと思います(それでなくても、我々はノストラダムス世代なので・・・)。そうした方向での安易な現実逃避は、極めて危険なメンタリティだと自覚するべきです。
まあ、私は母を早くに亡くしたことも関係あるのか、岡本さんよりは何十倍もずっと霊感は強いほうだと思っていますし、「スピリチュアル」や「新興宗教」での不思議な体験も多々ありますが、そういうことを人前でペラペラ喋るのは、人間としても男としても「恥」だと、意識的に肝に銘じています。
先日、モーツァルトの絶筆は「レクイエム」ではなく「ホルン協奏曲第1番」が定説になったとコメントしましたが、どうも正確には、両方とも絶筆というのが正しいみたいですね。石井宏氏の著書などが、信頼でき、かつ一般には手に入れやすい情報です。
http://rose-music-etc.blog.ocn.ne.jp/blog/2008/04/post_113c.html
http://www.geocities.jp/dennis_brain1921/dbbbs8.html
「ジュスマイヤーには女房を寝取られた上に、大切な作品まで作者の意思に反する勝手な補筆をされてしまった」
「クサヴァー・モーツァルトはコンスタンツェとジュスマイヤーの不倫の子」
バーンスタイン晩年の演奏は、ジュスマイヤー版ではなくバイアー版なのが、何となくうれしいです(両版の骨格は、ほとんど変わりませんが・・・、本当は、もっと考え抜かれ、かつもっとモーツァルトの精神に則した、最高に素晴らしい出来の「レヴィン版」で聴きたかったのです)。
>最後の「レクイエム」に至っては一切の冗談が通じない、あくまで「重い」音楽として作られている。
その意味で、モーツァルトの絶筆に、本来の彼らしい、無邪気なホルン協奏曲第1番が加わったのは、救われる思いです。そしてこの作品も、ジュスマイヤー補筆完成版ではなく、レヴィン補筆完成版で聴きたいです。
どうも私、ジュスマイヤーとブラームスに対してだけは正義感が上回り、その多大な業績は認めつつも、どうしても人間的には許せません(これは理屈ではありません・・・笑)。

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岡本 浩和

>雅之様
おはようございます。
貴重なご意見をありがとうございます。
僕自身もそこは一番気をつけているところでして、現実と精神性のバランスをとることがとても大事だということを意識しています。
確かにブログなどを書く時に、潜在的にもっている意識が反映されるので、ともすると自分自身の調子が良くない時に「愛」なるものを掲げて(言葉に出そうが出すまいが)しまうのかもしれません。
>意識し過ぎると依存心ばかりが強くなり、逆に遠ざかっていくのが「愛」の本質だと思います。
>モーツァルトの絶筆に、本来の彼らしい、無邪気なホルン協奏曲第1番が加わったのは、救われる思いです。そしてこの作品も、ジュスマイヤー補筆完成版ではなく、レヴィン補筆完成版で聴きたいです。
確かに!同感です。
まさにおっしゃるとおりだと思います。
>私にとっては「愛」よりも、孤独に耐える強靭な力を養成することのほうが、よほど重要だと感じます。
これについてはどうなんでしょう?
強靭な力というのは本当に「孤独」だった場合には養成されないように思うのです。強い人、弱い人という表現がありますが、エゴイスティックな状態の時人間は誰もが弱くなるんだと僕は思うんですよね。「孤独」でも人を信じ、つながっているという感覚を持てている時はそれこそ耐えられますが、「不信」からくる「孤独」であったなら土台無理なようにも思うのです。
マザー・テレサの言葉、素晴らしいですよね。
>そうした方向での安易な現実逃避は、極めて危険なメンタリティだと自覚するべきです。
これについては全く同感です。
>不思議な体験も多々ありますが、そういうことを人前でペラペラ喋るのは、人間としても男としても「恥」だ
TPOによりますよね。僕自身不思議な体験というものがそもそも少ないので、ペラペラしゃべる機会はほとんどないですが。
>ジュスマイヤーとブラームスに対してだけは正義感が上回り、その多大な業績は認めつつも、どうしても人間的には許せません
「正義感」!ですか?(笑)
それにしても今日のコメントありがとうございます。
ゆっくりまたお話ししたいですね。
雅之さんの勇気に感謝いたします。(笑)

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